弘道館の創始者 皆川淇園について

皆川淇園(みながわきえん)とは

皆川淇園(みながわきえん/1734-1807)は、江戸中期の京都を代表する儒者で、弘道館は淇園が創立した学問所です。淇園は開物学という独自で難解な学問を創始する一方、詩文や書画にも優れた風流人で、門弟3千人と言われました。

皆川淇園_近世名家肖像
By 谷文晁 (東京国立博物館 http://www.tnm.jp/) [Public domain], via Wikimedia Commons

皆川淇園 略伝

皆川淇園は享保十九年(1734)十二月八日、京都正親町坊(現在の京都市上京区三丁町)に生まれました。父は皆川成慶(号は春洞)、母は塩釜氏の出。九人兄弟の二番目の子で、長男でした。淇園の本名は愿(げん)。字は伯恭、通称文蔵といいました。後には有斐斎・呑海子と号しました。

淇園は幼い頃からその学才の片鱗を示し、四歳か五歳の頃、父が杜甫の詩を授けたところ、すぐに暗記しました。他にも読書させれば、一読してその内容を記憶したといわれています。弟・成章もまた慧敏を示したので、父は二人の子の求めるに従って書を与えるなど、熱心な教育を施しました。

幼少の頃、淇園と成章の師であった儒学者の大井蟻亭は、自ら作った漢詩でこうした淇園の神童ぶりを称えました。淇園はこの蟻亭の他にも、伊藤錦里や三宅牧羊などに従って学びました。

淇園は大変な読書好きで、たとえわずかな時間でも目が書から離れることはありませんでした。その読書好きは朝早くから机に向かい、食事中も本を読んでいた程です。また門下生や来客があっても机の前を離れず、その人が帰ればすぐに読書に戻りました。難解な字句については他事が一切目に入らないほど集中し、理解することができれば狂喜するほどであったそうです。学んだ内容についてもこまめにノートをとり、その数は数百巻に及んだといわれています。淇園にとってはこうした行いも全て自分が楽しむためであり、人に示すためはありませんでした。学問を心底から好んでいたであろう淇園の人柄が窺えます。こうして淇園は開物学という学問を創始しました。

文化二年(1805)、淇園は自宅の西隣の土地を買い、弘道館を設立します。その規則は下記のようなものでした。

一、諸門人学業勤習致し候う儀、専ら躬行を慎み、浮薄に流れず相心得べく候事、
一、常に多言暴躁を戒め、恭遜を尚ぶべき事、
一、受業未熟の輩、異学の徒に対して、誇詡をなすべからず、但し同志研竅の儀は、格別に為すべき事、
一、註解は聖人の本意にあらず、之により経書釈義刊行の儀、かたく之を禁ず、但し自ら遺忘に備うるの類は格別に為すべき事、
一、経術取り扱い候上においては、軽率に我意をたてず師の説に従い申すべし、但し後々経文発明これ有り候う者においては、校合の上、其の善に従うべき事、
一、総て著述刊行の儀、学塾へ差出し、一覧の上指揮に従い申すべき事、
一、同盟の士、互に和気を以て相待ち、争諍これ有るまじき事、

その数三千人と言われた淇園の門弟の中には、庶民だけではなく大名までが名を連ねていました。そのもっとも著名なのは、二十年の期間にも及ぶ随筆『甲子夜話』の著者、平戸藩主松浦静山でしょう。その他にも、丹後の宮津藩主松平宗允、膳所藩主本多康完、亀山藩主松平信岑が淇園の教えを受けていました。なお、淇園の墓表は松浦静山の撰と本多康完の筆によるものです。

また淇園は学問だけではなく、漢詩も得意でした。淇園は天明四年、柴野栗山や赤松滄洲らと共に三白社という詩社を興しています。その他にも書は王羲之を好み、画を望月玉仙や円山応挙に学びました。特に画は山水画を得意としたそうです。
文化四年(1807)五月十六日、病によって亡くなります。門弟を始め、京都の人々はその死を惜しみ、葬式にはおよそ数千人が訪れたそうです。

皆川淇園 年譜

享保19年12月8日 京都正親町坊(中立売室町西、現在の京都市上京区三丁町)に生まれる。父は皆川成慶、母は塩釜氏。九人兄弟の二番目の子で長男。
元文3年 弟、富士谷成章(1738-1779。国学者で『かざし抄』『あゆひ抄』などを著した)が生まれる。
寛延元年 朝鮮通信使の来訪にともない、成章と共に見に行く。席上で詩を唱和したことろ、その詩句が大変巧みであったため、通信使を驚かせたという。
宝暦2年 阿波国に一ヶ月ほど旅行する。
宝暦5年 江戸と京都を往還する。
宝暦11年12月 亀山藩主松平信岑の聘に応じ賓儒となる。
宝暦12年 子の篁斎(1762−1819)が生まれる。
宝暦14年 亀山藩、幕府の命令によって朝鮮通信使を枚方で遇する。淇園は亀山藩のために詩文を草した。
明和4年 春に尾藤二洲(儒者で寛政の三博士の一人)が入門する。
明和5年 甥の富士谷御杖(国学者)が生まれる。
安永5年 秋に巌垣彦兵衛(儒学者巌垣松苗の父)が入門する。10 月 19 日、妻(亀山藩松平熈房の妹)が亡くなる。
安永8(1779)8月4日 淇園の父・皆川成慶(字は春洞、号は白洲)が亡くなる。
同年 10月2日 弟・成章が数え年四十二歳で亡くなる。
天明4年1月7日、柴野栗山と三白社盟を修める。
天明5年3月23日 淇園の友人であった清田儋叟が亡くなる。
寛政3年11月14日 平戸藩主の松浦静山(随筆『甲子夜話』の著者)が入門する。
寛政5年4月24日 長女が亡くなる。
寛政9年7月14日 妻(亀山藩小関清右衛門の妹)が亡くなる。
寛政12年5月23日 丹後宮津藩主松平宗允(1780-1816)が入門する。
文化2年 孫の皆川子温が生まれる。弘道館を京都中立売室町西に設立する。
同年 3月17日 平戸藩主松浦熈(1791-1867。松浦静山の三男)が入門する。
文化3年5月12日 弘道館が落成する。
文化4年4月 病気になるも、病床で講義を行った。5 月 16 日、数え年 74 歳にて没する。
文化5年8月 松浦静山が淇園の墓表を撰する。

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