嵯峨野文化通信 第20号

☆★☆————伝統文化プロデュース【連】メールマガジン—————
     〔嵯峨野文化通信〕 第20号 2006年12月1日
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 伝統文化プロデュース【連】は、日本の伝統文化にこめられた知恵と美意識に
ついて、学び広めていくための活動をしている団体です。

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 ○●○ もくじ ○●○

  1.【連】からのお知らせ
  2.京都をめぐる歳時記 〜霜降の章〜
  3.(連載)『Many Stories of the Tea Ceremony』 第10話
  4.(連載)『ニッポン城郭物語』 第十幕
  5.メンバー紹介

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§――1.【連】からのお知らせ―――――――――――――――――――――§

 4月に開講以来、幅広い年代の方々に参加していただいている【連】の[嵯峨野
学藝倶楽部]。今年最後の[嵯峨野学藝倶楽部]講座の日時と講座内容について、
お知らせします。1回のみの参加も受付けています。どうぞ、お気軽にお越しくだ
さい。

 【連】が主催する〔嵯峨野学藝倶楽部〕は、日本の伝統文化を気軽に楽しく体験
すると同時に、より深く学ぶことができる場として様々な講座を開講しています。

☆「京都歴史講座」☆
  [講師]:中村武生氏
  [日時]:12月24日(日) 午後1時〜2時(60分)
  [講座内容]:「豊国社と大仏方広寺(豊臣秀吉の京都・その7)」
  [参加費]:1回1,000円(茶菓子付)

☆「うたことばを遊ぼう」☆
  [講師]:田口稔恵氏
  [日時]:12月9日(土) 午前10時〜11時(60分)
  [講座内容]:室町北山サロンの巻
  [参加費]:1回1,000円(茶菓子付)

☆「サロン文化史〜食の立場から〜」☆
  [講師]:太田 達氏
  [日時]:12月9日(土) 午前11時〜12時30分(90分)
  [講座内容]:室町北山サロンの巻
  [参加費]:1回2,000円(3回5,000円)

★[嵯峨野学藝倶楽部]に関するお問合せ・お申込みはこちらから★
sagano@ren-produce.com

●[嵯峨野学藝倶楽部]のホームページ
http://www.ren-produce.com/sagano/

§――2.京都をめぐる歳時記 〜霜降の章〜 ――――――――――――――§

 12月7日〜21日は、太陰暦を使用していた時代に、季節を表すための工夫と
して考え出された二十四節季のひとつ「霜降(そうこう)」です。

 朝夕には、池や川に氷を見るようになります。『暦便覧』には、「雪いよいよ降
り重ねる折からなれば也」と記されています。山々は雪の衣を纏って冬の姿となる
頃で、大地の霜柱を踏むのもこの頃からです。各地からも初霜、初氷、積雪の便り
が届きます。鰤などの冬の魚の漁が盛んになり、熊が冬眠に入り、南天の実が赤く
色づきます。冬将軍の到来ですね。でも、今年は暖冬なので、まだ早いような気も
しますね。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜「霜降」の時季を楽しむために〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

○吉例顔見世興行

 東西の人気歌舞伎役者が一堂に会する京都・南座の「吉例顔見世興行」。冬の風
物詩として知られる“まねき看板”の賑々しさとともに、その豪華さで毎年人気の
公演です。今年は中村勘九郎改め、十八代目中村勘三郎襲名披露が行なわれます。

 歌舞伎の発祥は、1603年と言われています。1603年と言えば、徳川家康
によって江戸幕府が開かれた年ですね。歌舞伎発祥から十余年の時を経て、南座が
誕生しました。南座は、元和年間(1615〜23)に京都所司代により京都
四條河原町に7つの櫓(座)を開くことが認められ、その1つが今に伝わる南座で
す。当初、座は四条通に五座、縄手通に二座があったそうです。その後、廃業など
もあり、六座が徳川吉宗の時代である享保年間(1716〜36)まで維持されて
いましたが、火災などにより廃業する座も出てきました。明治を迎えることのでき
たのは南北の2座のみで、明治26年に北側芝居も廃座となり、南座だけが歌舞伎
発祥の現在地に残りました。唯一、四条河原に残る南座は、このような歴史・由緒
を伝える座です。その桃山風破風造りは珍しく、国の重要文化財にも指定されてい
ます。

その南座で師走の風物詩になっているのが「吉例顔見世興行」です。これは、役者
との契約が年俸制だったためだとか、今年一年の芝居は、これこれの役者で務めま
すとのお披露目興行が「吉例顔見世興行」へと変遷します。「吉例顔見世興行」で
は正面玄関に「まねき」が掲げられます。「まねき」は、隅から隅まで観客で埋ま
るようにとの願いから、役者の名前は隙間の少ない勘亭流と言う独特の書体で書か
れます。この勘亭流と言う書体は、岡崎勘亭と言う人物がしたためたところ好評を
博したところから付けられた書体名だそうです。この「まねき」は長さ1.8m、幅
32cmの檜板、つや出しのために清酒を混ぜた墨で一気に書き上げられます。板
は、毎年削り直して使われますが、五年が限度だそうです。

 また、「総見」といって、京都五花街(先斗町・祇園甲部・祇園東・宮川町・上
七軒)の芸妓・舞妓さんたちが、客席両側の桟敷席で盛装して観劇するのが毎年の
恒例となっています。その様子は、まさに百花繚乱で、この日を狙ってチケットを
取るお客さんも大勢いるそうです。顔見世・総見は京都の冬に欠くことのできない
風物詩です。芸妓さんや舞妓さんは、総見でお目当ての役者さんの紋や名前の入っ
た簪などを身につけます。

[日程]:11月30日(木)〜12月26日(火)
[場所]:東山区四条大橋東詰

●京都四条南座のURL
http://www.shochiku.co.jp/play/minamiza/

§――3.(連載)『Many Stories of the Tea Ceremony』――――――――――§

        第10話 天心茶会―3―     太田 達

 「献茶」という言葉をご存知でしょうか。各流儀の茶道を熱心に精進されたこと
のある方なら当たり前の言葉なのだが、たぶん、一般社会では聞きなれない。でも、
字面から意味は容易に察しがつく。そう、神前や仏前で各家元が茶を献ずる儀礼で
ある。秋の10月、11月は、全国的にラッシュ状態と云ってもよいであろう。特
に京都は毎日のように何処かの有名社寺で催行されている。その次第は、午前9時
くらいに神社では神事祭礼、お寺では仏事法要が始まり、その後、お家元が白木の
台子棚にて、天目茶碗にたいがい2碗茶を点てられる。その点前も手を清めるフォ
ルムとしてのもみ手も息がかからないように和紙のマスク(?)で口を覆われたり
する。選ばれた参列者は、神前仏前の左右におおむねその社会的地位の順に着座し
見守る。終了後、境内にもうけられた、本席(たいてい家元席が多い)副席(いく
つかある場合もある)点心席を順に巡り、神社、寺院の雰囲気を感じ楽しむ、とい
う趣向である。

 11月24・25日の両日、裏千家千玄室大宗匠による薩摩琉球和合の茶会(正
式には奄美大島・沖縄・鹿児島交流茶会)と鹿児島・鶴嶺神社の献茶式をたずねる
ことになった。和合の茶会は、今回で8回目になるそうだ。琉球、奄美の薩摩によ
る二重支配。奄美と琉球と恩讐の歴史を、現在の尚王家と島津家の当主、そして、
奄美を含む三域の首長さんたちや、それぞれの地区の人々が茶会をして和もうとい
う趣旨。その2日目に、献茶式があった。鶴峯神社は鹿児島市の東錦紅湾に面して
鎮座している。桜島に対峙するように歴代島津家当主が祭祠されている。当代の島
津修久氏が宮司を勤められ、禰宜は3人だけで、祝詞には全員がいくつもの役目、
たとえば笙、太鼓、篳篥、榊運びなど、担当される。京都などの大きなお宮を見慣
れている目にはとても新鮮にうつる。いくら南国鹿児島といえども11月末の強い
海風に2時間あまり吹きさらしにされているのはつらい。前に座られている80歳
を過ぎたおばあちゃまが心配だ。いや、80歳を越えられた大宗匠の点前こそ、こ
の強風の中で拝殿の上で大丈夫だろうか。茶杓茶筅が飛ばないかと心配するも、杞
憂。実に荘厳な点前であった。神饌とは、その民族のシンボルともいえる食物を神
に捧げることである。これは神祭りの基本であることからして、現在においては、
千家茶道におけるお茶は、日本民族の伝統文化をシンボルとなったのかもしれない。
しかし、その献茶なる儀礼は、そんなに古いものではない。明治の中葉に欧米文化
へ国すべてが傾倒し、また、武家公家というパトロンを失った茶道が、家元それぞ
れが一般大衆の面前にて点前をみせるという新らしい時代の茶道普及の方法として、
京都北野天満宮で始まった。現在でも、毎年12月1日に、4流派2宗匠の6年に
一度の持ち回りでかけ釜されている。一度、お出かけになってみては。

 それと、前回の「天心」の終わり方が気になるとのお声があったので続きを。
 実は、あの日(五浦六角堂に天心と決別した日)、青山で鎮信流抱月派という茶
の家元を継がれているお家を訪ねた。それまでに頓挫したボストンの天心茶会には
狩野崖外の下絵のようなをものを軸装して待合掛けにするしかないなと話あってい
た。しかし、そのようなものは一度も見かけた事がないし、あまりありえないもの
だと考えていた。それが、そこの茶席の待合に掛かっていた。天地驚愕。これはな
に? と、庵主に天心と我々の顛末をお話したら、「それなら」と何と天心の辞世
の歌とその漢詩文が一枚の軸になったものが出てきた。天心先生に決別とは何事。
私を忘れるなと叱咤されたように思えた。恐るべし岡倉天心!
                                   (了)

§――4.(連載)『ニッポン城郭物語』――――――――――――――――――§

                ―第十幕―
                                梅原 和久

 明治の半ばには、建物はおろか石垣さえもほぼ失われ、「見る影もなく、わずか
に内濠池の残れると石垣の破れ崩れたるとによりて、その城址たるを知るのみ」と
記されるほど、荒れ果てた丹波亀山城。さて、その後どうなったのだろうか。

 大正8年(1919)、本丸と二の丸付近の土地が、亀岡出身の大本教(※)聖
師、出口王仁三郎(おにさぶろう)によって買い取られた。大本教団は、城内に残
された石を掘り起こして石垣を積み直し、翌9年には大道場を開設、聖地としての
体裁を整えた。そんな最中、日本近代史上最大の宗教弾圧と言われる「大本事件」
が起こるのである。

 例のオウム真理教事件の際によく引き合いに出されたこの事件であるが、性質は
全く異なる。「信教の自由」の保障がなかった戦前には、一方的に官憲の弾圧にさ
らされた教団が多かったが、大本教弾圧の理由は、「王仁三郎は天皇の真似をして
不敬であり、多くの信者を自由に動かすのは治安維持法違反である」というもので
あった。

 大正10年(1921)2月12日、約200名の警察隊が大本本部や幹部宅を
襲撃、幹部数名を不敬罪で逮捕した、というのが発端。(→第1次大本事件)

 大正天皇の死去に伴う大赦令で免罪となるも、昭和10年(1935)には、更
なる大弾圧が待っていた。武装警官隊550名が綾部と亀岡の大本本部を襲撃、6
1名の幹部と987名の信者が検挙された。拷問による自白の強要が繰り返され、
多くの命がこの取り調べの犠牲となったと言う。更に、「大本を地上から抹殺」す
べく、裁判の判決を待たずに、関係建造物の徹底的な破壊が強行された。その時に
使われたダイナマイトは、1400発以上。城地買い上げの際に整備された石垣も、
勿論再び破壊された。(→第2次大本事件)

 終戦後に公布された大赦令によって事件は最終的に解決し、再び「聖地」の整備
が再開された。信徒によって石垣の積み直しも行われ、現在見られるような高石垣
が整備されたのである。
http://www.oomoto.or.jp/Japanese/jpSeic/isigaki.html
この再築石垣の積み方から色々なことが分かるのだが、その話は次回に。

 一見すると築城当時の面影を残すかのような丹波亀山城跡。しかし、その裏には、
明治維新を契機とする近代化の波や、国家権力の闇に翻弄された、すさまじい歴史
があったのである。
                                (つづく)   

※幕末期から明治にかけて、西日本に立て続けに三つの新しい宗教が現れた。奈良
の天理教、岡山の金光教、そして京都の大本教である。大本教の教義では、全ての
宗教におけるあらゆる神は、呼び名は違っても本来同一のものであるとする考えが
根底にある。その「おおもと」の神(=宇宙創造神)の教えを説く「大本」こそが、
すべての宗教を超えた真の神道であるとし、更には、宇宙の中心は大本であり、日
本であるとしていた。国家神道の言う皇国史観とは別の、独自の皇国史観を持って
いたことが問題となった訳である。

§――5.メンバー紹介―――――――――――――――――――――――――§

 【連】のメンバーによる、自己紹介のコーナー。
20人目に登場するのは、[嵯峨野学藝倶楽部]の講座の1つ、「茶道教室」の講
師をしてくださっている西村靖子先生です。

 はじめまして、茶道担当の西村靖子です。自己紹介ということで、苦手な文章作
成で戸惑っています。【連】の濱崎さんとの出会いは、太田さん繋がりでした。太
田さんとは、お茶の団体で出会い、一緒に活動しています。小心者の私が(という
と、みんなに大笑いされるのですが)今日あるのは、いろんなご縁でたくさんの方
に出会えているからです。これからもよろしくお願いします。

○O+編集後記+O○******************************************************

 十二月になると、師(お坊さん)も走り回ることから「師走」と呼ばれています
ね。でも、これは、江戸時代以降にこじつけられた俗説なのだそうです。「師走」
という漢字は当て字で、万葉の時代から「十二月」と書いて「しはす」と読まれて
いたそうです。語源には、さまざまな説があって、「し」は、仕事を為すこと。「
はす」は、ほとんど「果つる」と解釈されているそうです。まぁ、どちらにしても
あわただしいことに変わりはなさそうですね。

 これからも、【連】では様々なイベントの開催予定や、日本の文化・歳時記など
について皆さんに、どんどんお伝えしていきます。
  [次の発行は、12月15日(金)の予定です。次回も、お楽しみに!]
                                  (治)
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多くの方に有斐斎弘道館の活動を知っていただきたく思っております。
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