嵯峨野文化通信 第17号

☆★☆————伝統文化プロデュース【連】メールマガジン—————-
     〔嵯峨野文化通信〕 第17号 2006年10月15日
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 伝統文化プロデュース【連】は、日本の伝統文化にこめられた知恵と美意識に
 ついて、学び広めていくための活動をしている団体です。

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 ○●○ もくじ ○●○

  1.【連】からのお知らせ
  2.京都をめぐる歳時記 〜霜降の章〜
  3.(連載)『新・都鄙の連関』 第9話
  4.(連載)『京都文化警察』 第9章
  5.メンバー紹介

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§――1.【連】からのお知らせ―――――――――――――――――――――§

 4月から開講している【連】の主催による[嵯峨野学藝倶楽部]の講座の1つ、
「茶道教室」を10月より平日(水曜日)にも開講することになりました! まだ、
試行期間中ですので、皆さんのご希望に合わせて、時間などを決めていきたいと思
っています。
 詳細は、お気軽にお問合せください。一緒に、お茶を楽しんでみませんか?

 [開講日]月2回 水曜日
 [時 間]午前、または午後を予定しています

 ☆次回の「茶道教室(平日コース)」のお知らせ☆

 [日 程]10月18日(水)
 [時 間]午後1時〜5時(お好きな時間にお越しください)
 (時間内であれば、納得されるまでいていただいて結構です)
 [場 所]嵯峨野「三壷庵(さんこあん)」

★[嵯峨野学藝倶楽部]に関するお問合せ・お申込みはこちらから★
sagano@ren-produce.com

●「嵯峨野学藝倶楽部」のホームページ
http://www.ren-produce.com/sagano/

§――2.京都をめぐる歳時記 〜霜降の章〜 ――――――――――――――§

 10月23日〜11月6日は、太陰暦を使用していた時代に、季節を表すための
工夫として考え出された二十四節季のひとつ「霜降(そうこう)」です。

 北国や山間部では、霜が降りて朝には草木が白く化粧をする頃です。野の花の数
は減り始め、代って山を楓や蔦(つた)が紅葉し始めます。『暦便覧』では、「露
が陰気に結ばれて霜となりて降るゆゑ也」と説明しています。

 10月23日〜立冬(11月7日〜21日)までの間に吹く寒い北風を「木枯ら
し」と呼びます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜「霜降」の時季を楽しむために〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

○時代祭

 時代祭は、平安神宮の創建と平安遷都1100年祭を奉祝する行事として、明治
28年に始まりました。明治維新によって著しい衰退を見せた京都の町おこし事業
の集大成として平安神宮が創建され、そこに寄せられた人々の熱意の象徴として、
まったく同じ意思のもとに創始されたのが時代祭です。その意志は、京都の誕生日
10月22日に「一目で、京の都の歴史と文化が理解できるものを」・「京都をお
いて、他にはまねのできないものを」というもので、京都人のこころいきと誇りが
ふんだんに織り込まれています。

 時代祭の行列は、京都全市域からなる市民組織「平安講社」(全10社)によっ
て運営されています。当初は6列、人員500名の規模でしたが、現在では明治維
新時代、江戸時代、安土桃山時代、吉野時代、鎌倉時代、藤原時代、延暦時代の7
つの時代を18の行列に分けて1列ずつ担当しているほか、江戸時代婦人列、中世
婦人列、平安時代婦人列は京都の5花街が輪番でご奉仕されるなど、総勢で約20
00名もの人々が参加する一大行列となっています。

 その行列は、明治維新では、維新勤王隊列・幕末志士列、江戸時代では、徳川城
使上洛列・江戸時代夫人列、安土桃山時代では、豊公参朝列・織田公上洛列、南北
朝時代では、楠公上洛列・中世夫人列、鎌倉時代では、城南流鏑馬列、藤原公卿参
朝列・平安時代夫人列、延暦寺代では、延暦武官行進列・延暦文官参朝列・神饌講
社列・前列・神幸列・白川女献花列・弓箭列と続きます。また、1万2000点に
もおよぶ調度、衣裳、祭具は綿密な時代考証が重ねられ、京都が1000年の間、
都として培って来た伝統工芸技術の粋を集めて復元された本物で、まさに、生きた
時代絵巻が繰り広げられます。

 ☆行列の楽しい見方☆

 時代祭の行列には、当然いるべきはずの足利尊氏、義満、義政、徳川氏、北条氏
などの人物が欠けています。何故なら、彼らは京都の人々に嫌われているからなん
です。どうして嫌われているのでしょう? そういう視点で観覧してみるのも、楽
しいかもしれませんね。

 [日 程]10月22日(日)
 [巡行順路]京都御所出発(午後12時)→烏丸御池(午後12時50分)→平
安神宮着(午後14時30分)
 [問合せ]京都市観光協会
      TEL:075−(752)−0227

§――3.(連載)『新・都鄙の連関』 第8話―――――――――――――――§

        ―青森・最果の天皇陵篇2―    太田 達

 見渡す限りのりんご畑は、遮るものが何もない。眺望はよいのであるが、それら
しきものは何もない。ちょうど、農作業をしていたおばあさんに尋ねた。すると、
「あんた、津軽弁わかるか?」と断りながら、そして、ちょっぴり誇らしげに、長
慶陵へ案内してくれると買って出てくれたが、申し訳ないので固辞し、何とか所在
を尋ね、ひと山向こうの在所へと向かった。相馬村紙漉沢である。そこには、上皇
宮という額が掛けられた小堂があった。あたりは、古木が鬱蒼と茂り、陽の光を遮
っていた。傍らに由緒書があり、「大同二年(807)、坂上田村麻呂が宝龍権現を
祀ったのが始まり。元中二年(1386)、長慶天皇が身を寄せていた浪岡館に北朝
側の南部信政が迫り、天皇は傷を受け、供奉の者と共に新田宗興が守っていたここ、
紙漉館に入った。その後、応永十年(1403)6月1日、この地で崩御。裏山の山
上は、かつて長慶天皇御陵墓参考地とされ、紙漉沢の石田家には天皇にまつわる多
くの古文書や遺品が残されている」と記されていた。正史にはない、南朝三代長慶
天皇の姿である。

 吉野山たなびく雲の晴れぬ間に人目を偲ぶ我が身なりけり
 陸奥の浪の館をいでしより今日紙漉に入るぞうれしき

 この歌は、在世中に長慶天皇によって詠まれたとされている和歌である。実に悲
しい歌ではないか。歴代天皇の中でも、これほど悲劇の生涯を過ごした方はいない
のではないだろうか。そもそも、第98代の帝として長慶が認知されたのは、大正
15年10月21日付の「長慶天皇御在位確認の詔書」を宣せられた時である。そ
れまでは、即位説、非即位説が入り乱れ、論争が絶えなかったようである。そうい
うわけで、普通とは異なる経緯で天皇の仲間入りをすることになった長慶天皇に、
時の大正政府は、その陵墓を治定しなければならないという大仕事ができたわけで
ある。宮内省に設置された臨時陵墓調査委員会により、昭和19年2月、京都市右
京区嵯峨天龍寺角倉町の天龍寺の塔頭であった旧慶寿院跡に、嵯峨東陵として選定
された。というより、実は新しく作り出されたと考えられる。その選定の根拠にな
ったのは、北朝との講和の時代である北朝明徳三年、元中九年(1393)、弟・後
亀山天皇が北朝後、小松天皇へ「御譲国の儀」という耳慣れないが、とりあえず三
種の神器を取り戻そうという、言わば義満の陰謀ともとれるデタラメながら実利的
なセレモニーにより「南北御合体一天平安」と相成る。この時、長慶天皇も上皇と
して京都に入り、応永元年(1394)に没したとされる。彼の皇子である海門和尚
承朝が、止住した天龍寺の塔頭慶寿院で供養したであろうという想像から長慶天皇
を京都嵯峨に結びつけたものである。しかし、どこにも長慶天皇が後亀山天皇に同
行して京都に入った形跡は全くない。
                                 (つづく)

§――4.(連載)『京都文化警察』 第8章――――――――――――――――§

        文化警察捜査1課長出張報告―名古屋地区篇―

 愛知万博以後、この都市は美しくなった。米軍の空襲により、400年の歴史文
化が破壊されリセット。戦後の再開発により、街路は広く日本一広い歩道があり建
物もよい間隔で、適当にその高さも揃っている。最近、特に看板が減り、ある意味、
ヨ―ロッパの新しい街・西ベルリンのような雰囲気が漂う。

 大須を訪ねた。日曜日だからか、人で溢れている。栄・錦などの中心街と違い、
アーケイドが縦横に交差する。ディスカウント、電気店、電脳、ういろう、きしめ
ん、ブラジル料理、イタメシ、ブティックのオンパレード。浅草に秋葉原をたして、
ベトナム市場並にスクエアにつめこんだようだ。辻、辻では大道芸。10月15日
に行われる名古屋まつりのせいかも。金粉ショー、10人もいるオーケストラ並み
のちんどん屋、なんやわからんムームーを着た、フラメンコのお姉さん達(おばち
ゃんではないですよ)大道プロレス。織田信秀の菩提寺の前では、尾張伝統のから
くり人形が突然始まる。金がかかっているのやらないのやら。Gジャン500円の
隣には、代官山とみまごうばかりのブテッィク。ここではGジャンが、50000
円である。街、町、まち、はカオス。あらゆる食と芸能が集まる。町衆のパワーで
あろうか。かつて、京都でも500年前、八坂や北野門前に存在していた。伝統文
化には格調と格式をもとめがちになる。京都人の我らにとっての、よき手本になる
ことを改めて認識した。大名古屋は偉大であった。

     ※京都文化警察では、みなさまからの告発を募集しています!
      ☆目撃情報は、こちらまで。→sagano@ren-produce.com☆

§――5.メンバー紹介―――――――――――――――――――――――――§

 【連】のメンバーによる、自己紹介のコーナー。
17人目に登場するのは、松尾清美さんです。

 初めまして、松尾清美と申します。【連】との出会いは、能をテーマにしたお菓
子の展示を嵐山の老松さんで偶然、拝見させていただいたのが最初だと思います。
学生時代は日本文学専攻だったのですが、文芸学部だったので、文学だけではなく、
広く芸術との関連もみていくように指導してくださった先生がいらっしゃり、その
ときのゼミ以来、初めて外にも同じ感覚をもって活動している人達がいることを知
り、「これは面白い、すごい!」と思って、太田達先生をたよりに京都まで伺わせ
ていただいているうちに、自然と【連】に辿りつきました。昨年は、京都アートウ
ォ―クの西行庵に御邪魔したり、嵐山もみじ祭りや二条城の今様に参加させていた
だきました。

 今年は、三壷庵さんでの「茶道教室」を中心に伺わせていただいています。【連】
の自由な空気と、心やその心の有様を伝えている言葉を大切にしている信条が大好
きです。可能な限り、これからの活動にも参加できたらいいなと思っています。

○O+編集後記+O○*****************************************************

 日本の四季は、4人の女神が支配していると考えられました。春は「佐保姫(さ
ほひめ)」夏は「筒姫(つつひめ)」秋は「竜田姫(たつたひめ)」冬は「うつ田
姫(うつたひめ)」です。

 これは、都を囲む山々のうち、東の山には春、南の山には夏、西の山にはあき、
北の山には冬の神が、それぞれ住んでいるという中国の考え方に基づいています。

 平城京の西には竜田山がありました。そこに住んでいる竜田姫は、染織と織物が
得意なのだそうです。つまり、錦織りなす野や山のみごとな色彩は、竜田姫のしわ
ざというわけです。その素晴らしい技を時間を忘れて存分に楽しんでみる季節は、
もうすぐそこですね。

 これからも、【連】では様々なイベントの開催予定や、日本の文化・歳時記など
について皆さんに、どんどんお伝えしていきます。

   [次の発行は、11月1日(水)の予定です。次回も、お楽しみに!]
                                  (治)
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多くの方に有斐斎弘道館の活動を知っていただきたく思っております。
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