嵯峨野文化通信 第18号

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     〔嵯峨野文化通信〕 第18号 2006年11月1日
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 伝統文化プロデュース【連】は、日本の伝統文化にこめられた知恵と美意識
 について、学び広めていくための活動をしている団体です。

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 ○●○ もくじ ○●○

  1.【連】からのお知らせ
  2.京都をめぐる歳時記 〜立冬の章〜
  3.(連載)『Many Stories of the Tea Ceremony』 第9話
  4.(連載)『ニッポン城郭物語』 第九幕
  5.メンバー紹介

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§――1.【連】からのお知らせ――――――――――――――――――――§

○嵐山もみじ祭

 嵐山もみじ祭は、小倉山の紅葉を讃え、嵐山一帯を守護する嵐山蔵王権現に感
謝する祭です。午前10時30分から始まる午前の部と、午後1時から始まる午
後の部に分かれています。
 午前の部には、筝曲小督船・今様船・嵯峨大念仏狂言船・平安管弦船・東映太
秦映画村船などが参加されていて、小督船の船上舞台では筝曲、今様船上では、
今様が披露されます。午後の部には、御神酒船・今様船・民謡京寿船・大覚寺船・
天竜寺船・車折芸能神社船・野宮船・嵯峨大念仏狂言船・平安管弦船・東映太秦
映画村船などが参加されていて、趣向を凝らした船が、大堰川に浮かび、祭はよ
り賑わいをみせます。色とりどりの船が、紅葉を背にしたその風情は一見の価値
があります。【連】メンバーも協力している、日本今様謌舞楽会による「今様船」
も参加しています。来られた方は、ぜひ、さがしてみてくださいね。

 また、午後1時から2時まで、大堰川のほとりで島原の太夫によるお点前披露
が行われる夕霧祭が行われます。そして、午後2時30分より、ホテル嵐亭前か
ら嵐山ホテル前まで太夫道中も行われます。

 [日時] 11月12日(日)
 [場所] 嵐山・渡月橋一帯(雨天中止)
 ※参観自由

●「日本今様謌舞楽会」のホームページ
http://www.ren-produce.com/imayou/

§――2.京都をめぐる歳時記 〜立冬の章〜 ―――――――――――――§

 11月7日〜22日は、二十四節季のひとつ「立冬(りっとう)」です。

 立冬は、立春・立夏・立秋と並び、季節の大きな節目を示します。
 初めて冬の気配が現われてくるころで、『暦便覧』では、「冬の気立ち始めて、
いよいよ冷ゆれば也」と説明しています。

 「冬が来る」と言っても11月の初めは、まだ秋の気配が残っていますよね。
でも、朝夕には空気の冷たさを感じ始める頃です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜「立冬」の時季を楽しむために〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

○伏見稲荷大社・火焚祭

 11月に入ると、京都の各神社から煙が立ち昇ります。これは、「お火焚き」
と呼ばれ、江戸時代から京都などで行われる神事で、陰暦11月に社前において
火を焚き、祝詞や神楽でもって神意を慰めました。秋の収穫感謝の新嘗祭(にい
なめさい)の一種、または、古くから庭燎(にわび)を焚いて神楽を舞ったもの
の名残であるとも言われていて、神社だけでなく民間でも行われ、今でもみかん
や(※)饅頭、おこしなどを供え、神社では参詣者の方に授与したり、民間では
子供たちに配られます。また、「鍛冶屋の鞴(ふいご)祭」などが民間で行われ
ることもあったようで、火を用いる業種(鍛冶屋、染物屋、造酒屋など)によっ
て、お火焚きの日が決まることが多いそうです。

 特に有名な火焚祭は、伏見稲荷大社で行われる、秋の収穫の後に五穀の豊饒を
はじめ万物を育て給う稲荷大神のご神恩に感謝する祭典です。

 伏見稲荷の火焚祭では、本殿の儀のあと火焚きの儀が行われます。本殿裏手の
斎場に3基の火床を設け、神田でとれた稲のわらを燃やし、恵みをもたらしてく
れた神を山に送ります。その際、全国から寄せられた約10万本の火焚き串(願
い事が書かれたのもの)を焚き上げ、罪障消滅・万福招来を祈願します。同社で
は、午後6時から、本殿前で庭火を焚き、神楽女の神楽舞・人長舞が奉納されま
す。

(※)小豆のこしあんを入れた小判形の紅白饅頭に、宝珠の焼き印をつけたもの。
お供えもののおさがりとして、近所の人や普段お世話になっている方々に配って
回ります。昔、子供たちは、今日はここ、明日はあっちというように近所を回っ
て、お菓子を貰いに行くのが楽しみだったそうですよ。

 [日程]:11月8日(水)
 [場所]: 伏見稲荷大社(京都市伏見区深草藪之内町68)

●伏見稲荷大社のホームページ
http://www.inari.jp/

§――3.(連載)『Many Stories of the Tea Ceremony』―――――――――§

        第9話 天心茶会―3―     太田 達

 明治38年、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山を中心とした日本美術
院は、五浦に移った。当時、人々はこれを「都落ち」「朦朧派の没落」と笑った。
岡倉天心は、その2年前、福島・茨城両県の海岸地方を検分し、太平洋の波が寄
せくる断崖の奇巌錯雑の地に六角堂を建て、「五浦釣徒」と称し、自然の中で暮
らした。また、年の内半分をボストンという二重の暮らしを始めた。というわけ
で、天心マニアにとって北茨城の「五浦六角堂」は聖地となった。アジアを代表
する詩人・タゴールも、天心の死後、この六角堂を訪れている。当然、私たちも
巡礼として、この、天心その人とも思える六角堂で茶会を開かねば天心茶会は完
結しないと考えるに至った。

 実は6月頃、私たちは、この天心シリーズの中で少し行き詰まりを感じていた。
天心の″The Book Of Tea″のメモリアルである今年に入ってからの茶の活動であ
るため、ボストンで茶を点てなければという考えに行き着き、それを目標として、
ハーバード大学、ジャパンソサエティなど、それぞれの知人を介して、その達成
を目指してきたが、どうも、このメモリアルイヤーの内に海を渡る事が困難にな
っていた。なんとなく、天心が幾度も遭遇したであろう立場に近いものを感じ、
それを楽しむゆとりは持ちつつ、代案としたのが、国内の聖地「五浦六角堂」で
あった。だが、ここにも困難が立ちはだかった。現在、この六角堂を含む旧天心
邸は、茨城大学の管理する文化財となっているのである。果たして茶を点てられ
るのか・・・。そこが、文殊の智恵である。調査という名目で、私たちは、「茨
城大学」という腕章をそれぞれ腕にはめ、とうとう、六角堂に座すことができた。

 直径二間ほどであろうか。今は、六角に適合する変形の畳が敷き詰められてい
る。が、天心時代に畳は、なかったそうである。私たちは、堂に入るやいなや、
軸を掛け、着物に着替え、持参の魔法瓶と茶碗を取り出した。そして、円座。そ
の視線の高さには、太平洋の300度近いパノラマが広がった。ここは確かに六
角堂の内部であるが、視線の先には、大観の描く東海の景色が見える。一般に、
茶室にしても仏堂にしても、その中から外を視ることはできない。すべてが内へ
と集中される。六角堂は、茶室でも仏堂でもない。むしろ、道観のようだ。なの
に、この六角堂内の茶はうまかった。ほんの一瞬。そこは、まさに茶室であった。

 帰途、常磐線に揺られながら天心の空間の概念を思った。天心の「スキヤ」概
念の3つの分類である「好き」「空き」「数寄」である。この空間こそが、文化
を生み出す装置なのだと。
 翌日、私たちは青山のカフェで待ち合わせた。これで、天心とは決着がついた
と話し合った皆の顔は晴れ晴れとしていた・・・・。その後に起きる恐ろしい事
態を私たちは、その時、想像する由もなかった。
                                (つづく)
§――4.(連載)『ニッポン城郭物語』―――――――――――――――――§

                ―第九幕―
                               梅原 和久

 原稿締め切り日の10月25日、何を書こうかなぁと思いながら新聞を見てい
たら「祇園囃子」や「山鉾巡行」といった言葉が目に飛び込んできた。京都の夏
を彩る、あの祇園祭の話ではない。丹波の祇園祭、秋の祇園祭とも言われる亀岡
祭(※1)の記事である。新聞にも、この祭りが歴代の亀山藩主にも保護されて
きたことや、今年も旧城下町の辻々に鉾が立てられたことが触れられていた。
 という訳で、いかにも思いつきの展開ではあるが、今回は、丹波亀山城にまつ
わる話。

 城の名前は亀山なのに、何故亀岡市なのか。基本的なことではあるが、まずは、
このことから。この地は明治にいたるまで「亀山」と呼ばれていた。しかし、同
じ亀山が伊勢にもあり、混同を避けるために丹波のほうが「亀岡」と改称された、
というのがその理由である。同様の例として、田辺城は丹後と紀伊(丹後田辺が
舞鶴に改称)にあったし、高田城は越後と豊後(越後高田が上越に改称)、松山
城などは伊予・備中・出羽(備中松山が高梁に改称)の3箇所もあった。

 同じ名前だからと言って何を混同することがあるか、と思うが、実際に寛永9
年(1632)、江戸幕府により丹波亀山城天守の解体修築の命を受けた堀尾忠
晴が、誤って伊勢亀山城天守を解体してしまう、という珍事が起こっている。伊
勢亀山としては何とか天守の再建を目指したが、結局その後は幕府から許可がお
りなかった、という笑うに笑えない話である。しかし、実はこれは伊勢亀山城が
小大名にしては分不相応に大きすぎる、との理由で意図的に行われたとの説もあ
る。そのほうがありそうな話ではある。

 さて、丹波亀山城については、これまでの連載でも数回触れてきた(バックナ
ンバー4号・14号を参照のこと!)が、明治初年まで5層の天守の他、多数の
建物を残す大規模な城であった。(※2)。しかし、明治10年(1878)、
廃城処分されることになり、天守は解体、建物の一部は払い下げられた。以降、
土地も建物も転売を繰り返され、持ち主も定まらないまま次第に荒廃していった。
残された石垣も山陰線の敷設時に使用されたほか、明治13年(1881)には
東本願寺によって買い取られ、保津川経由で修復資材として利用されるなど、維
新から10数年でほぼ完全にその姿を消してしまったのである。

 「そうは言うけど、今でも城跡には立派な石垣があるよ」という読者の声が聞
こえてくる。そう、それが問題なのである。この後、丹波亀山城は文字通り激動
の歴史の渦の中に否応なく巻き込まれていくのである。。。 と余韻を残したと
ころで、続きは次回。
                              (つづく)
(※1)亀岡祭山鉾連合会のホームページ
http://www.kyoto-kameoka-kankou.jp/k-maturi/
(※2)丹波亀山城には、明治初年に撮影された写真が2枚だけ残っている。そ
のうちの一枚がこれ。不鮮明ではあるが、雰囲気はつかめる。
http://www.sawagani.jp/imgboard1.cgi

§――5.メンバー紹介―――――――――――――――――――――――――§

 【連】のメンバーによる、自己紹介のコーナー。
19人目に登場するのは、明石さんです。

 明石と申します。【連】の活動には、『ニッポン城郭物語』を連載中の梅原さん
の紹介で参加するようになりました。2年前の『生田コレクション展』では蒔菓子
のデザインを、今様では白拍子を、普通では体験できないことが、いとも簡単に経
験できてしまうのが、【連】のスゴイところです。

 これからも、どんな出会いがあるのか楽しみです。

○O+編集後記+O○*****************************************************

 11月になりましたね。11月の異称の1つに「霜降月(しもふりつき)」があ
りますが、「霜降月」を省略したものが「霜」なんだそうです。

 霜といえば、霜を降らす女神のことを「青女」といいます。これは、前漢の淮南
王劉安が学者を集めて編纂させた哲学書『淮南子(えなんじ)』に出てきた霜雪を
降らせる女神のことで、転じて霜自体をさして使うようにもなったといいます。

 これからも、【連】では様々なイベントの開催予定や、日本の文化・歳時記など
について皆さんに、どんどんお伝えしていきます。
  [次の発行は、11月15日(水)の予定です。次回も、お楽しみに!]
                                  (治)
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多くの方に有斐斎弘道館の活動を知っていただきたく思っております。
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