☆★☆———-伝統文化プロデュース【連】メールマガジン—————
〔嵯峨野文化通信〕 第14号 2006年9月1日
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伝統文化プロデュース【連】は、日本の伝統文化にこめられた知恵と美意識
について、学び広めていくための活動をしている団体です。
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○●○ もくじ ○●○
1.【連】からのお知らせ
2.京都をめぐる歳時記 〜白露の章〜
3.(連載)『Many Stories of the Tea Ceremony』 第7話
4.(連載)『ニッポン城郭物語』 第七幕
5.メンバー紹介
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§――1.【連】からのお知らせ――――――――――――――――――――§
○青森茶会―森の儀礼―
前号でもお知らせしました【連】コーディネイトによる青森茶会の詳細が決ま
りましたのでお知らせいたします。詳しくは下記のURLからご覧ください。
●青森茶会―森の儀礼―のURL
http://www.ren-produce.com/event/060909_aomori/
○山野草直送便
【連】では、京都の洛北・大原の地元の方が大切に育てた「山野草」を直送販
売しています。四季折々の新鮮な山野草を、鉢や溶岩鉢に植え込みして販売して
います。季節が移り変わる中で、様々な表情を見せてくれる「山野草」をホーム
ページに載せていますので、ぜひご覧ください。
●「山野草直送便」のホームページ
http://www.ren-produce.com/sanyasou/
§――2.京都をめぐる歳時記 〜白露の章〜 ―――――――――――――§
○上賀茂神社・重陽の節会と烏相撲
9月9日は古来9という陽(陰陽の陽)の数字の重なる日であるところから重
陽節句として五節句の一つに数えられ、宮中を始め一般にも祝いの日とされ、厄
災祓いの日として、菊酒を飲んだり、菊の花についた露で肌を拭ったりして長命
を祈ってきました。
烏相撲は上賀茂神社の祭神・賀茂別雷神の祖父である賀茂建角身命が神武天皇
東征の折、巨大な「八咫烏(やたがらす)」=(不思議な大烏)となって先導をつ
とめるという大きな功績をたてたことと、悪霊退治の信仰行事としての相撲等が
結びついて行われるようになりました。
当日、本殿で祭典があった後、境内細殿前庭(ほそどのぜんてい)で弓矢をもっ
た刀祢(とね)が烏の踊るが如く三三九躍横跳びをしたのちカーカーカーと烏鳴き
をするなどユニークな所作を行い、その後、子ども達による相撲が行われます。
また、その年、葵祭にご奉仕頂いた斎王代がこれをご覧になります。
[日 時]9月9日(土) 午前10時〜
[場 所]上賀茂神社(北区上賀茂本山町)
TEL:075(781)0011
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜「白露」の時季を楽しむために〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
9月8日〜22日は、太陰暦を使用していた時代に、季節を現すための工夫と
して考え出された二十四節季のひとつ「白露(はくろ)」です。
白露とは、野原の草に露がつきはじめ、白く見えて「秋」が感じられるころと
いう意味です。
『暦便覧』には、「陰気ようやく重なるりて露にごりて白色となればなり」と記
されています。野には薄(すすき)の穂が顔を出し、秋の趣がひとしお感じられ
るころで、朝夕の心地よい涼風に、幾分の肌寒さを感じさせる冷風が混じり始め
ます。
今年は9月28日が旧暦の8月15日に当たります。いわゆる中秋の名月です。
日が暮れるに従い、東の空にまんまるな中秋の名月が昇ってきます。お天気がい
いことを祈って。。。
§――3.(連載)『Many Stories of the Tea Ceremony』―――――――――§
第7話 天心茶会―1― 太田 達
今から100年前、1906年(明治39年)、ニューヨークにおいて岡倉天
心の"The Book of Tea"(茶の本)が出版された。私たちは、このメモリアルイヤ
ーに日本人におけるグローバリズムの先駆者への崇敬の念をもって、天心所縁の
地において懸釜することになった。
まず、"The Book of Tea"の概略を説明しておこう。
"The Book of Tea"は、7つの章からなる。
1.The Cup of Humanity
2.The Schools of Tea
3.Taoism and Zennism
4.The Tea Room
5.Art Appreciation
6.Flowers
7.Tea-masters
この本は、様々な読み方ができる。茶道入門として、東洋思想入門として、ま
た、芸術論として。茶に関する細部の誤りはあるが、それらを吹き飛ばすほどの
神髄を得ており、世界に対する「東洋の理想」のすばらしさを解く。アジテーシ
ョンであり、プロパガンダでもあり。その後、彼のレトリックは、国粋主義者た
ちに都合よく使われることもあった。
が、読めば読むほど岡倉は天才である。すべての本質を見抜き、茶にかかわる
言葉の英語への置換のあり方は見事というほかない。茶室の特色を「数寄」=un
symmetrical、「空き」=vacancy、「好き」=fancyという表意の違いをもって見
事に訳している。
この天心=岡倉覚三に敬意を表し、彼所縁の地、(1)ミラノ(イタリア)(
2)五浦(茨城)(3)ボストンの三カ所を茶の場として用意した。
(1)ミラノ=明治20年、フェノロサとともに訪れた。(『欧州視察日誌』)。
伝統日本美術の精神性が世界に通用することを確信した場所である。
(2)五浦=明治39年、都落ちして日本美術院を茨城県の五浦に移転。六角堂
を完成させた。
(3)ボストン=明治37年、イザベラ=ガードナー夫人との出会い、『茶の本』
誕生の引き金となった。
(つづく)
§――4.(連載)『ニッポン城郭物語』―――――――――――――――――§
―第七幕―
梅原 和久
前回、明治になってからの建造物移築についての話の中で、「城の象徴である
天守の移築例はない」と書いた。しかし、これは明治以後の場合に限った話であ
って、城の現役時代である戦国時代・江戸時代には数多い。
京都近辺でも、明治始めまで残っていた丹波亀山城の五層天守は、もともと伊
予今治城のものであった。これは築城の名手藤堂高虎つながりである。丹波亀山
城は天下普請(=徳川幕府が、諸大名に命じて幕府の城を建てさせること)で築
かれたのだが、その縄張り(=城の設計のこと)を担当したのが高虎であった。
その際に、高虎は徳川幕府に自らの居城の天守を献上した、という訳である。
京都競馬場の最寄り駅である京阪淀駅は、構内が明治まで存在した淀城の跡だ
が、かつてここに聳(そび)えていた天守にはもう少し複雑な経緯がある。
伏見城が京都における政権の拠点としての役割を終えて廃城と決まったことに
伴い、新たに淀に城が築かれることになった。その際、天守は伏見城の五層天守
を再利用することになり、天守台(=天守を支える石垣)もそのサイズに合わせ
て築造された。しかし、伏見城の天守は急遽二条城に移されることになり、もと
もと二条城にあった天守を淀城に持ってくることになったのである。「巨大な建
物を、そんなトコロテンみたいに…」と思わずつっこみを入れたくなるが、本当
の話である。
もとの計画と違う天守が来るのだから、土台のサイズと合わなくなるのは理の
当然。二条城の天守は伏見城のそれよりも小ぶりだったので、天守を据えると、
天守台の周囲に空白地ができることになってしまった。で、どうしたか。四隅に
小さな二層櫓を配置し、天守の周りを櫓で囲うことで誤魔化したのである。(※)
こういった建物の再利用ならではの特殊な話は多い。京都の寺院に時折見られ
る、いわゆる「血天井」もその一つであるが、この話はまた次回に。
(つづく)
(※)復元図を元に、誰かが描いたイラスト。特殊な天守のイメージはつかめる。
http://www4.ocn.ne.jp/~pcl/yodojyo.htm
余談だが、毎週のように京都競馬場に通っているにも関わらず淀城の存在に全
く気づいていない知り合いがいた。京阪淀駅の真後ろに天守台の石垣が迫ってい
ることを指摘しても「そんなんあったっけ?」。確かにあの駅は競馬新聞しか見
ていない人の占める比率が高い。
§――5.メンバー紹介―――――――――――――――――――――――――§
【連】のメンバーによる、自己紹介のコーナー。
14人目に登場するのは、竹中泉美さんです。
大学生の時に、今様のお手伝いをしてみない? と大学院の先輩から誘ってもら
ったのが、【連】に関わるもともとのきっかけでした。
大学院で、近世の日本漢詩を専攻していましたが、近世は、日本文学史上、平安
時代に劣らないほど女性が活躍した時代です。女性の漢詩人もいましたが、それら
の多くの作品は、ご子孫の家などに埋もれて忘れられている状態です。また、最近
では漢詩そのものが基礎教養ではなくなってきています。そのような、忘れられつ
つあるものを【連】を通して見直していきたいと思っています。
○O+編集後記+O○*****************************************************
秋の七草の一つである「萩(はぎ)」は、昔から野山に自生している植物です。
萩は、秋の字を持ち人々に秋を知らせる愛らしい花です。万葉の時代、男女とも髪
に萩の花を飾り、恋文を荻の花の小枝に結び贈りあっていたそうです。オシャレで
風情がありますね。
萩といえば山萩(やまはぎ)を指す枝や葉は家畜の飼料や屋根ふきの材料に、葉
を落とした枝を束ねて箒(ほうき)に、根を煎じて、めまいやのぼせの薬にするな
ど、人々の生活にも溶け込んでいました。地上部は一部を残して枯死するため、毎
年新しい芽を出すことから「はえぎ(生え芽)」となり、しだいに「はぎ」に変化
しました。
ちなみに、秋のお彼岸に供えるのは秋を代表する花の「萩」にちなんで「萩餅」
→「御萩餅」→「御萩(おはぎ)」と呼ばれるようになりました。
これからも、【連】では様々なイベントの開催予定や、日本の文化・歳時記など
について皆さんに、どんどんお伝えしていきます。
[次の発行は、9月15日(金)の予定です。次回も、お楽しみに!]
(治)
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