ではいよいよと言いますか、春の歌に戻ります。この巻十の春の歌は、『古今集』と同じく、春の到来から始まります。ちなみに、『古今集』では、「年の内に春は来にけり・・・」と、暦を見ながら、今日は立春なのかあと気づく歌ですね。『万葉集』では何を見て春の訪れを知ったのでしょうか。
ひさかたの天の香久山この夕べ霞たなびく春立つらしも(巻十・春雑歌・1812)
(ひさかたの)天の香具山に、この夕べ、霞がたなびいている。春になったようだな
天(あめ)の香具山に霞が立つ。これが立春の印なのです。天の香具山といえば、百人一首でもおなじみのこの歌がありました。
天皇の御製の歌
春過ぎて夏来たるらし白たへの衣干したり天の香具山(巻一・藤原宮御宇天皇代・28)
春が過ぎて夏が来たらしい。真っ白な衣を干している天の香具山。
持統天皇による、夏の到来を詠んだ歌。これも、香具山の景を詠んでいるのでした。山を見て季節の到来を知ったのか!となるところですが、香具山はただの山ではありません。
香具山とは、奈良県橿原市にある山です。奈良盆地の真ん中には、すんとそびえる三つの山があり、これらは大和三山と総称されますが、香具山もその一つです。中でも香具山は、古くから王がまつりごとを行う神聖な山とみなされてきました(ここで行われる儀式を国見(くにみ)といいます)。季節の正常な循環は、王権の力によるものとされていましたから、王権と深い関わりをもつ香具山をもって、春の到来を宣言したのですね。
天の香具山に霞がかかる。神聖な山にたちこめる霞は、なんとも幻想的だったのだろうなと思います。
ちなみに、百人一首にもとられる「春過ぎて」という歌ですが、この歌もおもしろいですよね。香具山に白い衣が干してあるのを見て、夏は来ぬと思ったという歌です。現代の『万葉集』の注釈では、香具山に白い衣が干してあったのを見て詠んだと説明されています。この白い衣は、春の神事で人々が着ていたものだそう。立夏の日差しに照り輝く白いシャツとみれば、お洗濯のCMさながらの爽やかさです。
しかし、霞のたちこめた春の香具山を知ってしまうと、この干されていた衣が実景ではなく、実はイメージの世界であるとする中世の説も捨てがたく思ってしまいます。たとえば、室町時代の連歌師、宗祇は『百人一首』の注釈書(応永抄と呼ばれています)で、霞を衣と見立てて、香具山がそれを脱いで干しているのだと説きます。確かに、『万葉集』の初期の歌が、ここまでイメージと連関によって詠まれているかと言われると厳しいものがありますが、おもしろい解釈ではあります。ちなみに、この解釈は、歌道の大成者にして戦国大名でもある細川幽斎(『詠歌大概抄』)が受け継ぎ、近代になるまでの百人一首の読みに大きな影響を与えた北村季吟(『百人一首拾穂抄』)にまで伝わっています。勢いで『百人一首』の話もしてしまいました笑。万葉の春は花もそうなのですが霞もあるのです。聖山としての香具山は古典文学にもたまに出てくるので、知っていると良いでしょう。
では、さいごに、美しい春霞の歌をご紹介します。
春霞流るるなへに青柳の枝くひ持ちてうぐひす鳴くも(巻十・春雑歌・1821)
春霞がたなびくのと同じくして、芽吹きだした青柳の枝をくわえて鶯がホーホケキョと
鳴くやないの
霞が流れるとは、漢詩の言葉「流霞」に由来したもの。たなびく霞が流れていると言うことで、ゆったりとした時間を言葉の内に宿します。美しい言葉ですね。さらに、何かをくわえる鳥は「花喰鳥文様(はなくどりもんよう)」という、シルクロード起源の意匠を想起させます。「なへに」という言葉は、ある行いや状態が、スイッチのように他の動作や状態を引き起こすときにつかう言葉です。霞が流れると、呼ばれてきたように、鶯が新芽の柳をくわえて来て、ホーホケキョとなく。『古今集』以降の和歌なら、枝は梅でしょう。これが柳と言うところに、漢籍のよいにおいがします。
【参考文献】
吉田究「翻刻「百人一首抄」(応永十三年奥書) 注と索引を付す」『大阪産業大学研究所所報』第2号1979年
小島憲之ほか『新編日本古典文学全集 万葉集(3)』小学館1994年
伊藤博『萬葉集釋注 一』集英社1995年
大坪利絹編『百人一首拾穂抄』和泉書院1995年
伊藤博『萬葉集釋注 五』集英社1996年
久保田淳ほか編『歌ことば歌枕大辞典』角川書店1999年
島津忠夫『新版 百人一首』角川ソフィア文庫1999年
佐竹昭広ほか『万葉集(二)』岩波文庫2013年
佐竹昭広ほか『万葉集(三)』岩波文庫2014年
小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院2015年
『和歌文学大事典』日本文学web図書館
「香具山」辰巳正明執筆『万葉神事語辞典』國學院大學デジタル・ミュージアム(http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/dbTop.do?class_name=col_dsg 8月19日確認)
『詠歌大概抄』(早稲田大学図書館古典籍総合データーベース(http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i04/i04_03163_0094/index.html 8月19日確認))
※万葉集本文は原則訓み下し文とし、佐竹昭広ほか『万葉集(一)~(五)』岩波文庫2013年~2015年を用いました。
御手洗靖大(早稲田大学大学院文学研究科 M2)