嵯峨野文化通信 第22号

 ☆★☆————伝統文化プロデュース【連】メールマガジン—————
        〔嵯峨野文化通信〕 第22号 2007年1月1日
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  伝統文化プロデュース【連】は、日本の伝統文化にこめられた知恵と美意識に
 ついて、学び広めていくための活動をしている団体です。

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  ○●○ もくじ ○●○

   1.新年のご挨拶
   2.【連】からのお知らせ
   3.京都をめぐる歳時記 〜小寒の章〜
   4.(連載)『Many Stories of the Tea Ceremony』 第11話
   5.(連載)『ニッポン城郭物語』 第十一幕
   6.メンバー紹介

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 §――1.新年のご挨拶―――――――――――――――――――――――――§

  新年あけましておめでとうございます。
  このメールマガジンは、伝統文化について、ともに考え、その良さを広げていこ
 うと、昨年2月、手探りで始めたものです。何とか第22号までたどりつきました。
 ご購読ありがとうございます。
  本年は、このメールマガジンが、皆様と思いをぶつけあえるような場になればと
 考えています。京都について、あるいは、伝統文化について、日頃考えていること、
 疑問に思っていることなどはありませんか? ともに語りあいましょう。
ご意見・ご感想・質問・投稿など、お待ちしております。
  本年もどうぞよろしくお願いいたします。
                          【連】代表 濱崎 加奈子

 §――2.【連】からのお知らせ―――――――――――――――――――――§

 「京と冬遊び」☆★☆京菓子づくり☆★☆

   京菓子の枠「こなし」を作ります。
  「こなし」は「練り切り」と外見上良く似ていて、よく間違われますが、製法が
 全く異なります。材料は備中白小豆のこしあん、小麦粉など。各家の秘伝相伝にな
 っており、一般に公開されることはあまりありません。この機会をお見逃しなく!
  当日は「こなし」を一から作ったあと、着色、成形、銘々までしていただきます。
 詳しくは、下記のURLからご覧ください。

 [日時]1月28日(日) 午後2時〜4時
 [料金]4,000円(呈茶つき)
 [講師]太田 達(京菓子司「老松」主人)
 [持ち物]持ち帰り用の容器、エプロン

 [プロデュース]伝統文化プロデュース【連】

 ●「食と暮らしのうるおいサロン Relish 」のURL
 http://www.relish-style.com/

 §――3.京都をめぐる歳時記 〜小寒の章〜 ――――――――――――――§

  二十四節季とは、1年を24等分にし、その区切りごとに名前をつけ現在でも、
 季節の節目節目を示す言葉として使われています。1月5日〜19日は、二十四節
 季の一つ「小寒(しょうかん)」です。

  この日(1月5日)を「寒の入り」、この日から節分(立春の前日[2月3日])
 までを「寒(かん)」と言い、冬の寒さが一番厳しい時季になります。池や川の氷
 も厚みを増す頃ですね。その時季の中でも「小寒」は、字義上は寒気がまださほど
 ではないという意味になりますが、実際には、すでに本格的な冬の季節で、「大寒」
 (1月20日〜2月3日)よりも寒いときが少なからずあるようです。「小寒の氷、
 大寒に解く」ということわざがありますが、これは、「寒さの最も厳しいはずの大
 寒が、小寒よりも暖かな場合があることから、物事が必ずしも順序どおりにはいか
 ないこと」を意味しています。『暦便覧』には、「小寒」のことを「冬至より一陽
 起るが故に陰気に逆らう故益々冷る也」と記されています。

  ☆★☆寒中見舞い☆★☆

  近年では、「暑中見舞い」と比べると「寒中見舞い」を出す人は少ないようです
 が、事情により年賀状を出すのが遅くなってしまった場合や、喪中にもかかわらず
 年賀状が届いた人への返信を出す場合は、この期間(小寒)中に「寒中見舞い」と
 して出すようにしましょう!

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜「小寒」の時季を楽しむために〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ○花街始業式

  各花街の歌舞練場などで行われる始業式には、稲穂のかんざしに裾引きの正装姿
 の舞妓・芸妓さんがあつまります。1月7日、祇園甲部は女紅場学園、宮川町では
 東山女子学園、先斗町では鴨川学園、祇園東ではお茶屋組合の2階においてそれぞ
 れ行われます。上七軒は1月9日、歌舞練場において行われます。各花街ともに、
 売花奨励賞や、技芸が優秀な舞芸妓さん、成績優良のお茶屋を表彰します。

  後に祇園甲部では「倭文(やまとぶみ)」、先斗町では「梅の栄」、また宮川町
 ではその年の勅題に合わせた舞などを舞い初めとして披露します。残念ながら一般
 の方は見学できませんが、歌舞練場の付近で舞妓・芸妓さんたちの姿を見かけるこ
 とができるかもしれませんね。

 [日程]:1月7日(日)・9日(月)
 [場所]:祇園甲部・宮川町・上七軒・先斗町・祇園東

 §――4.(連載)『Many Stories of the Tea Ceremony』――――――――――§

         第11話―事始め―      太田 達

  「事始め」は年中行事の1つで、上方では12月13日を御事始めとして正月の
 準備にとりかかる日とされている。商家や芸伎事の世界では、出入方社中が衣服を
 改めて鏡餅を主家や師匠の家へ持参し、祝儀を述べる日である。私が初めて裏千家
 の事始めに、ご挨拶に伺うようになったのは15年前のことであった。

  また、例年、この日の夕刊やTVニュースでは、祇園甲部の舞妓さんが井上流家
 元に挨拶しているところが載ったり放映される。お鏡餅がたくさん並んだ前で、八
 千代師匠が末広(扇)を一人一人に手渡している。裏千家の事始めに戻ろう。兜門
 前の橋の上(通りの名の元になった小川には今はもう水が流れていないのだが、裏
 千家前のみ川の遺稿が遺っている)にそれぞれの会ごとに集合し、午前8時すぎく
 らいから台所よりぞろぞろと入庵し、いくつかの小間に分散して待つ。この時間が
 私は好きだ。薄暗い中でふすま絵を楽しむ。そうするうちに「さあ、さあ」と、咄
 々斎と呼ばれる初釜などの行われる大きな部屋に通される。台子飾りの横、床を背
 に大宗匠とお家元が座られており、その前に向かって30人ばかりが座し、言葉を
 たまわり、退室する。その後、又新という名の立礼の席で、業躰(ぎょうてい)さ
 んの点前をいただく。この日のお菓子は「試み餅」。正月の餅つきのテストといっ
 たところか。茶菓子なので餡入りである。風情は素朴な風がいいか? それぞれ出
 される薄茶の茶碗は、実は今年の初釜でいただいた茶碗。要は、干支(犬)の絵や
 勅題(笑み)の絵などの見納めオンパレード。本年もいよいよこれで納まるのかと
 思うひとときである。
                                    (了)

 §――5.(連載)『ニッポン城郭物語』――――――――――――――――――§

                 ―第十一幕―
                                 梅原 和久

  前回の続きとして、石垣の積み方の話を書こうと思っていたところ、編集長から
 「正月らしく、おめでたい華やかな話を」というリクエストが来た。「丹波亀山城
 の石垣は『谷積み』と言われる、近代特有の積み方で…」などというような内容で
 は、確かに華やかな話にはなりようがない。

  城にまつわることで華やかと言えば… 金の鯱(しゃち)? 安直だが連想して
 しまったのだから仕方がない。という訳で、今回はこの話。

  まず、鯱のルーツだが、飛鳥、奈良時代の建物の屋根に乗せられている「鴟尾(
 しび)」が転化したものだとか、13世紀半ばに禅宗を通して日本に入ったものだ
 とかいう説がある。その姿は「頭は虎、体は魚」というものであり、波を起こして
 雨をよく降らす動物だとされたことから、防火のための守り神となっていた。

  鯱は当初、仏寺の厨子(ずし)等に使われていたが、城の天守や櫓の屋根に飾ら
 れるようになったのは、信長の安土城が最初だと言われている。以後、城の中心的
 な建物の屋根には鯱が飾られることが慣例となったが、それを金で覆ったのはやは
 り秀吉。伏見城や大坂城は勿論金の鯱が輝いていた。さすがに一大名の居城には例
 がないが、次の天下人である家康の江戸城や駿府城にも金鯱があった。

  そして、現在金の鯱の代名詞となっている名古屋城である。金鯱を飾った他の城
 が火災にあったり取り壊されたため、江戸時代中期以降に金鯱を見ることができた
 のはここだけであった。(惜しくも昭和20年5月の空襲で焼失…)

  創建当時の金鯱に貼られていた金の板は、慶長大判1,940枚分。金の量で言
 うと320キログラム、現代の値段に換算すると約4億円である。これが屋根の上
 にあった訳だから贅沢極まりない。東海道を旅する人々は、名古屋城の金鯱をなが
 めて「天下様でもかなわぬものは 金の鯱ほこ雨ざらし」といったそうだが、確か
 に剛気ではある。  

  ただ、財政難を乗り切るため、尾張藩では江戸時代を通じて金鯱の改鋳を繰り返
 してきた。そのため、時代と共にその輝きは失われていった。また鯱の鱗の合わせ
 目に鳥が巣を作ったりする被害も深刻だったようで、享保15年(1730)には
 鯱全体が鳥除けの金網で覆われてしまった。(※1)

  しかし、それでも金の塊が野ざらしになっていたのは事実である。不届きなこと
 を考える人も、やはり後を絶たなかった。芝居などで有名な、凧に乗って金鯱の鱗
 を盗んだ怪盗柿木金助の話は半分創作(※2)だが、明治以降でも4回盗難事件が
 起こっている。中でも昭和12年(1937)、実測調査中に鱗58枚が盗難にあ
 ったという事件の際には、名古屋市長が引責辞任する事態となったくらいである。

  戦後、再建なった名古屋城には、当然のごとく金鯱が飾られた。大蔵省造幣局が
 作った2代目に使われたのは、18金で88キログラム。初代ほどではないが、充
 分の輝きを誇っている。(※3)
                                 (つづく)

(※1)戦災焼失前の名古屋城古写真。以下のページから、金網で覆われた鯱の写真、
 ウイーン万博展示用に鯱が外された際の写真などを見ることができる。
 http://underzero.net/html/tz/tz_200_12.htm

(※2)凧の話は創作だが、柿木金助は実在の盗人。名古屋城本丸の土蔵に侵入、凧
 ではなく舟で逃走したらしい。宝暦13年(1763)8月、名古屋の町を引き回
 しのうえ、磔・獄門に処せられた。

(※3)秀吉の一夜城伝説で有名な墨俣城。実はここにも金鯱がある。あの「ふるさ
 と創成事業」の一億円で作られた史実無視、成金趣味の代物。24金を27キロも
 使っているそうな。どうでもいいが。

 §――6.メンバー紹介―――――――――――――――――――――――――§

  【連】のメンバーによる、自己紹介のコーナー。
 22人目に登場するのは、嵯峨野学藝倶楽部で「サロン文化史〜食の立場から〜」
 と「茶道教室」の講師をしてくださっている太田 達先生です。

  太田と申します。自己紹介は今まで的確にできたことがないので、あきらめてい
 ます。先だってある会で司会者に紹介されたのですが、「ホームレスの太田さん」
 と言われました。結構気に入ってます。昨年、何と青森県を95%踏破いたしまし
 た。1つの県をここまで歩いて考えてみるというのは、すごく面白かったです。今
 の気分は旅人・菅江真澄です。明日は何を目指しているか分かりません。以上。

 ○O+編集後記+O○******************************************************

  皆さま、明けましておめでとうございます\(^○^)/ 2007年、最初の
 〔嵯峨野文化通信〕です。今年は、どんな1年になるのかワクワクしています。

  今年も〔嵯峨野文化通信〕では、【連】が開催するイベントの他、京都の旬な情
 報をお届けすると同時に、みなさんに楽しんでいただけるメールマガジンに育てて
 いきたいと思っています。どうぞ宜しくお願いいたしますm(__)m

 本年もみなさまにとって、素晴らしい一年となりますように・・・o(uωu人)o

   [次の発行は、1月15日(月)の予定です。次回も、お楽しみに!]
                                   (治)
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多くの方に有斐斎弘道館の活動を知っていただきたく思っております。
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