嵯峨野文化通信 第12号

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      〔嵯峨野文化通信〕 第12号 2006年8月1日
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 伝統文化プロデュース【連】は、日本の伝統文化にこめられた知恵と美意識
 について、学び広めていくための活動をしている団体です。

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 ○●○ もくじ ○●○

  1.【連】からのお知らせ
  2.京都をめぐる歳時記 〜立秋の章〜
  3.(連載)『Many Stories of the Tea Ceremony』 第6話
  4.(連載)『ニッポン城郭物語』 第六幕
  5.メンバー紹介

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§――1.【連】からのお知らせ――――――――――――――――――――§

○「第2回 ビアラベルコンテスト」開催中!

 前回もお知らせしました「第2回 ビアラベルコンテスト」が、7月17日(
月)から上七軒歌舞練場の舞台にて好評開催中です!

 「ビアラベルコンテスト」は、全国から応募いただいた40本余りの風情豊か
なビアラベルを並べ、訪れた方に楽しんでもらうとともに、上七軒や花街の歴史
と文化に思いをはせてもらうイベントです。お時間ありましたら、ぜひ、お足運
んでいただき、気に入ったラベルに投票してもらえると嬉しいです。(※なお、
観覧には、ビアガーデンへの来場が必要になります)

 [日 程]開催中(8月中旬までを予定しています)
 (※1・2日は舞台使用のため展示はありません)
 [時 間]午後6時〜10時
 [場 所]上七軒歌舞練場
 (※<8月13・14・15>はお盆休みのためお休みです)

●上七軒歌舞練場のホームページ
http://www.maiko3.com/

○「嵯峨野学藝倶楽部」からのお知らせ

 7月27日(木)に発行されたリビング京都(西南版)に、「嵯峨野学藝倶楽
部」の記事が載りました! 下記のURLから見ることが出来るので、ご覧くだ
さい。

●「嵯峨野学藝倶楽部」(リビング京都・西南版)
http://www.kyotoliving.jp/watching/0729w/06.pdf

§――2.京都をめぐる歳時記 〜立秋の章〜 ―――――――――――――§

 二十四節気は、1年を24等分にし、その区切りに名前をつけたもので、現在
でも季節の節目節目に、これを示す言葉として使われています。

 8月8日〜22日は、二十四節季のひとつ「立秋(りっしゅう)」です。この
日から立冬(11月7日)の前日までが秋になります。『暦便覧』では「初めて
秋の気立つがゆゑなれば也」と説明しています。暦の上では秋になりますが、実
際にはまだ真夏の暑さが厳しく、一年で最も暑い時季になります。

 藤原敏行は「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」
と詠んでいます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜「小暑」の時季を楽しむために〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

○京都五山の送り火

 京都の夏の夜空を彩る大文字五山送り火は、祇園祭とともに京都の夏を代表す
る風物詩として有名ですね。

 この送り火は、東山如意ケ嶽の「大文字」が最も有名なため、送り火の代名詞
になっています。そのほかに、金閣寺大北山(大文字山)の「左大文字」、松ヶ
崎西山(万灯籠山)・東山(大黒天山)の「妙法」、西賀茂船山の「船形」、お
よび嵯峨曼荼羅山の「鳥居形」があり、これらが、8月16日の夜相前後して点
火され、これを総称して「大文字五山送り火」とよんでいます。

 送り火そのものは、ふたたび冥府にかえる精霊を送るという意味をもつ宗教的
行事ですが、これが一般庶民も含めた年中行事として定着するようになるのは江
戸時代以降だといわれています。古くは旧暦7月16日の夜、松明の火を空に投
げ上げて虚空を行く霊を見送るという風習を記した史料があります。これに対し
て現在の五山の送り火は山において点火するという精霊送りの形態をとっていま
す。江戸時代後期には「い」(市原野)、「一」(鳴滝)、「竹の先に鈴」(西
山)、「蛇」(北嵯峨)、「長刀」(観音寺村)などの字形もありましたが、こ
れらは早く途絶えました。

 点火時間は午後8時から順々に点され、各山とも30分間です。まず、東山如
意ヶ嶽に大の字が浮かび上がると、続いて松ヶ崎の西山に妙・東山に法、西賀茂
船山に船形、衣笠大北山に左大文字、最後に嵯峨曼荼羅山に鳥居形が点ります。
精霊送りの意味を持つ盆行事の一形態で、京都三大祭(葵祭・祇園祭・時代祭)
に大文字五山送り火を加え、京都四大行事と称されます。また、五山の送り火は、
京の夏の終焉を飾る行事でもあります。

 現在では、五山すべてを一望できるところはないようですが、市内各所からい
くつからは見ることができます。皆さんのお気に入りの場所を見つけてみるのも
いいかもしれませんね。

 [日 時]:8月16日(水) 夜8時点火
 [お問い合わせ]:京都市観光案内所(JR京都駅2階)
         TEL:075―(343)―6655

§――3.(連載)『Many Stories of the Tea Ceremony』―――――――――§

            第6話 ―7月は茶会月―

 夏場は茶会は少ないのが普通だ。茶室には本来冷房設備がない。“夏は涼しき
よう、冬はあたたかに”という「利休七則(※註1)」のとおり、打ち水や平茶
碗(※註2)など、涼を感じる工夫がされる。それでも、暑いものは暑い。だが、
【連】の事務局にとっては、茶会だらけの文月であった。

 7月6日、ワールドカップサッカーのファイナルレセプションで茶席を担当。
場所はベルリン歴史博物館の巨大なドーム。元々プロイセンの武器庫だったもの
を、建築家イムペイが手を加えた有名な建物。ホワイト、マリンブルー、ライト
ブルーの3色の紗の布と竹で、二畳の茶室を会場の真ん中に据える。床には、鈴
の絵。ベル(=鈴)リン(=鈴)。ギャグである。およそ700人の接客であっ
た。
 帰国翌日の10日、大原にて日本テレビの撮影。取材といえども道具組、料理、
ストーリーをつくる。13日、韓国のテレビ局。これもお茶事。撮影の都合で朝
茶事(※註3)を夜にする。妙だ。14日も同じく大原にて、【連】メンバーの
高校教諭の同僚であるドイツ人とカナダ人にお茶事を体験していただくことにな
っていた。そこに、韓国の友人が2人のお客様を伴い突然参入。グローバルな一
夜であった。
 15日、嵯峨野学藝倶楽部の茶道教室のメンバーによる初めての発表会、「荒
ぶる神の宵茶会」。猛暑の中、急遽、氷や扇風機を買ってきてのおもてなし。夕
刻には激しい雷雨にみまわれながら、来てくださった方となごやかに語らうよき
会となった。
 16日、祇園祭宵山は恒例の八坂さんお献茶の日。【連】メンバーでもある尚
鈴さん他、上七軒の芸妓さん舞妓さん4人と、一力亭の茶会へ。千家十職(※註
4)と表千家の出入方、祇園甲部の舞妓さん10人ばかりがお運びをしてくれる。
華やかな京都である。17日巡行当日は、大雨。祇園のお茶屋「松八重」に午後
3時集合。実は出席者には何も知らされてなかったが、闘茶(※註5)の会であ
った。亭主が2種類の茶を「本茶」と「非茶」と定め、一服目に本茶を喫し、二
服目にいずれかの茶がまわされるのであるが、それが本茶と思ったら「小」を、
非茶と思ったら「鏡」をテーマに、それぞれ川柳を読む。思わず、「京都は奥が
深い」と東京人のごとくつぶやいてしまったわけであるが、よくよく考えれば、
亭主は東京人なのであった。
 22日、京都芸術センターで毎月様々な分野の人が亭主となる「明倫茶会」に
招かれた。今回の亭主は、裏千家みどり会という外国人ばかりの会である。2階
の大講堂が会場。暗く照明が落とされ、深い海の底にいるようだ。5つの立礼席
がスポットライトの中に浮かび上がっていた。それは、島のようだった。漂流者
にとっての希望の光=陸地のようであった。後に種明かしされたところによれば、
五大陸を表現したとのこと。久々の感動。
 23日、朝から松江に向う。明治25年築の茶室が取り壊しの危機にあるとの
ことで、一度見てほしいと依頼を受けたのだ。昭和30年代に行われたお茶事の
写真も残されており、当時、茶道が女性たちのものになっていく様を目の当たり
にする。しかし、今はただ、水屋道具を残すばかり。40年前の写真にもある露
地草履を手にとり、思わず、夢の跡かと溜め息すら漏れる。これぞ、40年ぶり
の跡見の茶会(※註6)か。翌24日、折しも松江で裏千家淡交会やくも青年部
による茶会があるとのことで、参加。日本全国を北から南から、家元の軸と茶杓
が巡る「リレー茶会」=「100日400回茶会」の真っ最中。名水点(※註7
)ですがすがしい気持ちに。
 京都に戻り、25日、鴨沂高校の茶道部の学生を上七軒に迎え、お茶をふるま
う。26日は、いわゆる京のお歴々、数寄者の会。茶の一服もそこそこに、祇園
某所でビール片手にカラオケで千鳥の盃(※註8)。27日、京の中心・御所の
横にこんな茶室が! と驚きつつ、40人の京のお歴々(今日は女性の部だ)に
薄茶一服。水屋は、偶然その場に集まった者だったのだが、よくよく考えてみる
と最強のスタッフだった。1人で大茶会の水屋半東(※註9)をこなせる段取り
のプロが3名、今一番点前が美しいと評判の女性が1名。何の打合せもなく初め
ての茶室での茶会だったが、大成功。29日は、大山崎のrelishサロンにて。欧
風の室内。ピアノの上が待合床。本床はクロスのかかったテーブル。まさか、軸
の作者・吉井勇は、キッチンの白壁に自分の和歌がかけられるとは思っていなか
っただろう。茶会が終り、道具を車に積み込んでいて、ふと振り返れば、そこに
待庵(※註10)があった。

 お茶といえば「まあ優雅な」とおっしゃるかもしれないが、これを読んでいた
だいた方には、お茶がかくもせわしなきものと、おわかりいただけただろう。何
事もほどほどが肝要。
                                  (了)

(※註1)利休七則(りきゅうしちそく)・・・千利休が茶の湯の心得を説いた
といわれる教え七条のこと。
(※註2)平茶碗(ひらぢゃわん)・・・口が広く開いた浅い形の茶碗。夏季に
使う。
(※註3)朝茶事(あさちゃじ)・・・夏期に行う茶事で、朝の涼しい間に終え
る。
(※註4)千家十職(せんけじゅっしょく)・・・千家の家元の好みや工夫を取
り入れた茶道具を調製する十人の職方の家系をいう。
(※註5)闘茶(とうちゃ)・・・鎌倉時代末期から室町時代に行われた茶会の
一種で、茶の産地と品種を飲み分け、茶種を味別する競技。
(※註6)跡見の茶会(あとみのちゃかい)・・・茶事が行われた跡を拝見する
茶事。
(※註7)名水点(めいすいだて)・・・名水を用いて茶を点てること。
(※註8)千鳥の盃(ちどりのさかずき)・・・茶事において亭主が客に酒をす
すめる際のやり方で、亭主と連客がひとつの盃を交互にとりかわす。
(※註9)水屋半東(みずやはんとう)・・・水屋<=裏で茶席の準備をするス
タッフ>と半東<=亭主の補佐役>の意。
(※註10)待庵(たいあん)・・・千利休作と伝えられる唯一の遺構で国宝に
指定されている。禅刹妙喜庵にある。
                     (参考:『茶道用語辞典』淡交社)

§――4.(連載)『ニッポン城郭物語』―――――――――――――――――§

                ―第六幕―
                               梅原 和久

 城巡りの楽しみの一つに、周辺に移築された建造物を訪ねる、ということがあ
る。城マニアというのは、城にまつわるもの全てが好きなものである。「かつて
城内にあった」という事実さえあれば、汚い塀でも門でも「へぇっ」ってなもん
である。(シャレではない)

 明治の廃城時、ほとんどの建物は壊され、材木は薪となってしまったのだが、
移築という形で命を長らえたものも多かった。中でも、最も多いのが城門である。
用途から考えて、門などは、城で使われようが寺であろうが同じようなもん(く
どい)であり、ほとんどの場合は城下の寺に移築された。他には、個人宅や学校
に移された例がある。(※1)

 次に多いのは御殿。藩政の中心的な建物だっただけに、廃城直後は裁判所や学
校、公民館として使われた後、最終的に寺の本堂や庫裏(くり)となって落ち着
いた例が多い。

 逆に、城の象徴である天守や櫓(やぐら)は、再利用が難しかったようで、移
築の例はそれほど多くなく、天守に至っては皆無(※2)である。
 櫓の移築先としては、寺や民家の例が多く、珍しいものとしては、2つの櫓を
連結して、遊郭に転用した、という例(上田城)がある。

 現代の感覚では、「移築」と言ってもピンと来ないかもしれない。コンクリー
ト製の建物の場合、用済みとなれば鉄球かダイナマイトで壊すしかなく、後には
ガレキの山が残るだけ。しかし、木造建築は違う。昔から建物の再利用は、頻繁
に行われていた。

 城の場合でも同様で、急いで築城する必要があるような場合、周囲の城から使
える建物をかき集めることが多かった。例えば彦根城は、建物の多くを大津城や
佐和山城、長浜城からの再利用でまかなうことで、経費の削減と築城期間の短縮
の両方を実現している。

 また、「由緒ある建物をありがたがる」という感覚も、移築を盛んにした理由
の一つだったろう。特に、秀吉や家康のような天下人の城が廃城となった時には、
全国の大名がこぞって建物を欲しがり、移築されていった。各地に残る伏見櫓(
伏見城からの移築物。福山城などに現存)がその代表であり、中には秀吉の築い
た肥前名護屋城の門が、直線距離でも千百キロ離れた奥州仙台城に移築されたと
いう例もあった。

 城の建造物の移築にまつわる話は、京都周辺の城についても色々ある。このま
まだと大長編となって顰蹙(ひんしゅく)を買いそうなので、続きはまた次回。 
                                (つづく)

(※1)ネットで見つけた、最も充実した移築一覧。まだまだモレがあるが。
http://www.castle7.org/joumon.htm
(※2)しかし、天守の廃材を利用して神社を造った笠間城の例はある。

§――5.メンバー紹介―――――――――――――――――――――――――§

 【連】のメンバーによる、自己紹介のコーナー。
12人目に登場するのは、磯久五郎さんです。

 僕と大学の友人達と立ち上げた「雅コンテスト」という着物のファッションコン
テストを、2005年7月14日宵宵々山の日に新風館で開催しました。その中の
「舞妓さんインタビュー」という企画の相談を濱崎さんにしたことがきっかけで「
都ライト」に参加しまして、そのインタビューを【連】や「都ライト」の 皆さんに
叶えて頂きました。

 僕自身は大学で建築を学んでいる身で、将来は京都の景観問題を軸の一つにやっ
ていきたいと思うので、【連】のような市民活動やコミュニティーに強く惹かれま
す。今は学校との両立が思うように行かず、ほとんど【連】の活動に参加が出来て
ないのが残念ですが、ゆくゆくはきちんと何らかの形で関わりたいと思います。

○O+編集後記+O○*****************************************************

 夏の夜空を彩る花火の祖先は、中国で発明され「狼煙(のろし)」として使われ
た黒色花火です。観賞用の花火は、14世紀後半のイタリアのフィレンツェに始ま
りました。現在のような打ち揚げ花火は、19世紀になってから登場しました。

 さて、ダイナミックな打ち上げ花火もいいですが、パチパチと音を立てて繊細に
燃えつきる線香花火も情緒があって素敵ですよね。線香花火には大きく分けて、『
長手牡丹』とよばれる火薬を和紙に入れ、紙縒(こより)のように撚ったものと、
『スボ手牡丹』とよばれるイ草に火薬を塗ったものの2種類があります。長手が下
に垂らして楽しむのに対して、スボ手は立てて楽しむという違いがあります。

 関西では、線香花火と言えばスボ手を思い浮かべる人が多いそうです。スボとい
うのはワラのことで、昔は葦やワラの細い管の中に火薬を入れた花火を火鉢に立て、
それにキセルで火を点けて遊んでいたそうです。その格好がちょうど、仏壇の前に
供える線香に似ていたことから線香花火とよばれるようになりました。江戸には細
い葦やワラが少なかったので関西で売られ人気になりました。一方、関東では和紙
が豊富で線香花火には欠かせない松煙もあり長手のほうが普及しました。

 これからも、【連】では様々なイベントの開催予定や、日本の文化・歳時記など
について皆さんに、どんどんお伝えしていきます。

   [次の発行は、8月15日(火)の予定です。次回も、お楽しみに!]
                                  (治)

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多くの方に有斐斎弘道館の活動を知っていただきたく思っております。
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