嵯峨野文化通信 第6号

☆————-伝統文化プロデュース【連】メールマガジン————–
      〔嵯峨野文化通信〕 第6号 2006年5月1日
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 伝統文化プロデュース【連】は、日本の伝統文化にこめられた知恵と美意
識について、学び広めていくための活動をしている団体です。

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 ■□■ もくじ ■□■

 1.【連】の今後の催し
 2.京都をめぐる歳時記 〜立夏の章〜
 3.(連載)『Many Stories of the Tea Ceremony』
 4.(連載)『ニッポン城郭物語』
 5.メンバー紹介

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◇――1.【連】の今後の催し――――――――――――――――――――◇

    << 公演決定!! >>

○韓国民族歌謡「情と恨(ハン)の世界」
  〜名妓 柳錦仙(ユ グム スン)の珠玉のうた声〜

 韓国・東莱(とんね)の名妓・柳錦仙(ユ グム スン)さんの来日が決定し
ました!

 幼少期より叩き込まれた技法、鍛え抜かれた声。とりわけ、<情>を歌わせ
たなら、この人の右に出る者はいないでしょう。

 そんな彼女の、歌い継がれてきた韓国民謡、巫俗の祈りにも通ずる恨(ハン)
を解き放つ歌、宴席で心なごませる歌、仮面劇の踊り手を跳躍させる即興歌な
ど、多彩な声の技法を堪能できるプログラムになっています。

 京都では初めての公演となります。ぜひともご来場ください!!

※柳錦仙(ユ グム スン)氏
韓国釜山広域市無形文化財第3号、東莱鶴舞(口音)芸能保有者。

 ■日 時:2006年6月7日(水)
      19:00〜20:30(開場18:30)

 ■場 所:「老松」嵐山店2F 玄以庵
  京都市右京区嵯峨天龍芒ノ馬場町20
 (TEL:075―881―9033)

 ■アクセス:天龍寺より北へ300m
      京福電鉄「嵐山」駅下車、徒歩3分
     JR「嵯峨嵐山」駅下車、徒歩5分
      阪急電鉄「嵐山」駅下車、徒歩10分

 ■参加費:3,000円 (1ドリンク付き)

 ■定 員:40名(完全予約制/先着順)

 ■予約先:伝統文化プロデュース【連】
   メールにてお申し込みください。
      E−mail:info@ren-produce.com

 主催:伝統文化プロデュース【連】
 後援:株式会社「老松」
 プロデュース:ヴィジュアルフォークロア
 協力:宮城学院女子大学音楽科
    大内 典(宮城学院女子大学助教授)
    崔 仁宅(東亜大学校教授)

◇――2.京都をめぐる歳時記 〜立夏の章〜 ――――――――――――◇

 二十四節季とは、1年を24等分にし、その区切りごとに名前をつけ、現在
でも、季節の節目節目を示す言葉として使われています。5月6日〜21日は、
そのひとつ「立夏」です。

 「立夏」は、春分と夏至の中間にあたります。気象的には6月からが「夏」
になり、東洋の暦ではこの日から立秋の前日までを「夏」とし、西洋の暦では
夏至から秋分の前日までを「夏」としています。

 『暦便覧』には、「夏の立つがゆへなり」と記されています。山野に新緑が
目立ち始め、夏の気が立ち始めるという意味です。つまり、ここから夏になり、
大地が草で覆われ、木々が繁ってくる時期になるんですね。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜「立夏」の時季を楽しむために〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

○三船祭

 新緑の嵐山・大堰川(おおいがわ)において優雅に繰り広げられる平安王朝
を偲ぶ船遊び絵巻です。車折神社の例祭で、約1100年前、宇多上皇が大堰
川に御幸の際、船遊びを楽しんだことに始まり、その後、和歌・漢詩・奏楽に
長じた方を3隻の船に分乗させて浮かべ、船遊びを楽しんだという故事により
ます。

 祭は午後2時頃から始まり、御座船を中心に竜頭船は管弦船に、鷁首(げき
す)船は歌舞船となり、その他、詩歌、俳諧、書画、稚児、長唄、謡曲、小唄
などの船約30隻が、渡月橋上流で大宮人達の優雅な遊びを再現します。

 また、【連】メンバーも協力している日本今様謌舞楽会による「今様船」も
参加しています。さがしてみてくださいね。

 日 程:5月21日(日) 小雨決行
 場 所:車折神社(右京区嵯峨朝日23)、大堰川渡月橋上流域

●車折神社のホームページ
http://www.kurumazakijinja.or.jp/

◇――3.(連載)『Many Stories of the Tea Ceremony』――――――――◇

  第3話 ―ソウル編―
太田 達

 それは成り行きの茶会であった。
 4月14日の夜、ソウルの大学路という道を少し入ったビルの地下にある韓
国伝統料理屋の一室。ソウルの知人が「韓国食生活環境デザイン協会」を立ち
上げたのだが、その式典で講演を頼まれての訪韓であった。無事講演を終えた
後、知人に連れて行かれたのがそのレストラン。

 百済の両班出身のオーナーシェフは、元々ファッションデザイナーを10年、
その後アートディレクターをしていたという不思議な経歴のおじさんで、年齢
を顧みずに着ているスヌーピーのセーターが印象的。彼のつくる美味なる料理
の数々を楽しむうち、連客(※註1)が集まった。流行りの韓流スターのよう
な結構イケてる建築家のお兄さん、若く見えるがたぶん50歳前のファッショ
ン雑誌編集のお姉さん、それに私と知人を加えた5人での会食である。

 百済料理の話題から発し、百済文化の宴席料理の高盛(たかもり)へと会話
は膨らむ。コース料理が終わり、最後に、″スンニュウ″が出された。これは
元々韓国においてお茶を飲まない理由のひとつとされるが、実は、この″スン
ニュウ″は日本の茶事(懐石料理が出される正式な茶会)の料理のラストに出
される″湯斗(ゆとう)(※註2)″とよく似ている。おこげのついた釜に白
湯(さゆ)を入れ飲むのがそれであるが、米のエキスを含み、実に美味。つい、
彼らに日本のお茶事についてレクチャーした。「この後で日本の和菓子を食べ、
日本のお茶を飲んだらお茶事になるよ・・・」云々。

 海外に出かける時は、いつも小さな茶道具セット(正式には″茶箱″という)
を携行している。これは、日本文化を手軽に伝えられる便利な小道具である。
是非ともオススメ。この茶箱で茶を点てはじめた。

 最初は薄茶一服のつもりであったのだが、店のオーナーが奥から彼のコレク
ションである高麗茶碗を持ってきた。ついに、濃茶の廻し飲みとな
った。

 韓国ではお茶を飲まない。(※註3)彼は私にその茶碗をプレゼントすると
言った。
「抹茶を飲まない俺が持っていても仕方ない」

 日本では、高麗茶碗(※註4)は、″井戸″″三島″″ととや″など、それ
ぞれのタイプに分けられる。珍重され、ものによっては何億もの値がつき、実
際に茶会で使われることはほとんどないといってもいい。美術品となってしま
ったわけである。

 でも、やっぱり茶碗は使うもの。そして、大きな茶碗は一座連客で廻すもの。
 なぜかソウルでこんなことを実感した。これも茶会。
                                 (了)

(※註1)連客(れんきゃく)・・・茶事、茶会の客となった時、自分以外の
客一同をいう。
(※註2)湯斗(ゆとう)・・・懐石の終わりに、焦がし湯などを入れて出す。
(※註3)韓国の喫茶事情・・・高麗時代の佛教文化世界においては喫茶習慣
は存在していたが、後、李朝の儒教文化のなかで衰退。食事時における"スン
ニュウ"の飲用も大きく影響した。80年代以降の民主化において、民族文化が
見直され、現在は煎茶の引用が増えている。また、日本との民間交流によって、
ここ4,5年はウーロン茶等の食事時の飲用も増えている。
(※註4)高麗茶碗(こうらいじゃわん)・・・主に李朝時代、朝鮮半島で焼
かれた茶碗の総称。利休により侘びの茶風が広がり、価値が高まった。
                  参考文献)『茶道用語辞典』(淡交社)

◇――4.(連載)『ニッポン城郭物語』――――――――――――――――◇

              ―第三幕―
                               梅原 和久

 前回「城=天守ではない!」と力説したくせに言うのも何だが、現存してい
る天守の数をご存知だろうか。城マニアにとっては常識レベルの事実ではある
が、普通はそんなこと知らなくても日常生活には全く支障がないだろう。当然
である。

引っ張っても仕方がないので答えを書くと、わずかに12城(弘前・松本・
犬山・丸岡・彦根・姫路・備中松山・松江・丸亀・松山・宇和島・高知)にす
ぎない。

 幕末時点で存在していた城(陣屋※を含む)は約200。天守(天守相当櫓
を含む)があったのはそのうちの約70だから、わずか2割にも満たない残
存率である。第2次大戦で焼失した7城(水戸・名古屋・大垣・和歌山・岡山
・福山・広島)、戦後失火で焼失した松前城を含めても、維新後の激動を乗り
切ることができた天守はたったの20城に過ぎないのだ。

 城の象徴である天守ですらこの状況である。いわんやその他の櫓・門をや。
(漢文で習ったねぇ)旧体制である封建社会の象徴とされた城は、無用の長物
とみなされてしまった。

 早くは明治初年から、新政府への恭順を示すため、また、維持費がかさむた
めという理由で藩士自らが破却したり(膳所城では天守に綱をかけて引き倒し
たという…無惨!)、焼き払ったり(戊辰戦争の舞台となった東北・北越地方
に多い)という例が見られる。

 明治6年(1873年)に新政府から「廃城令」が出され、破却もそのスピ
ードを増した。建物は次々に解体され、売られていった。大量の廃材が一気に
市場に出たため、当時薪の価格が暴落したという。華麗な姿を中海に映してい
た米子城の5層天守など、古物商にわずか37円で叩き売られて、風呂屋の薪
となったらしい。

 更に哀れなのが解体費用すらケチられて、放置された城である。瓦はズレ、
壁は落ち、柱がむき出しとなった無惨な姿を明治半ば頃までさらしたあげく、
結局取り壊された高松城などはその典型だろう。(先日、その当時の鮮明な古
写真がケンブリッジ大学で見つかったというニュースがありましたね)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~sans-culotte/topics050917-3.html

 ただ、同じような状態でありながら、その哀れな姿を見かねた人々によって
保存運動が起こった、という備中松山や松江のような幸運な例もあったことは
付け加えておく。

 「明治になって建物がなくなったのは分かるけど、尼崎とか高槻に城の痕跡
すらないのはどういうことよ」という読者の声が聞こえてくるが、長くなりそ
うなのでその辺は次号、ということで。

※ 概ね1万石以下で、「城持ち」を認められなかった大名の居城は「城」で
はなく、「陣屋」と呼ばれた。京都近郊の藩で言うと、綾部(綾部市)・園部
(南丹市)・大溝(高島市)・麻田(豊中市)などがそれ。
                               (つづく)

◇――5.メンバー紹介――――――――――――――――――――――――◇

【連】のメンバーによる、自己紹介のコーナー。
6人目に登場するのは、竹中聖人さんです。

 「恋人にするなら同志社、結婚相手なら京大」のオチになっている「用心棒
にするなら立命館大学」で社会学を専門にしている大学院生です。

 2004年に開催されていた鼓のイベントを手伝ったのを契機に、 【連】の
活動へ参加するようになりました。

 【連】のメンバーには国文学のような、社会学から見ると本当に古い時代を
学んでいる人もいます。

 でも、僕は「『戦後』も知らない」という視点から、日本の伝統や文化と思
われているものが、この数十年でどう扱われてきたのか見ていきたいと思って
います。

○O+編集後記+O○**************************************************

 外に出掛けるのが、楽しい季節になってきました。
意外と知らない日本の文化を、身近に感じるにはいい時季だと思いませんか。

 これからも、【連】では様々なイベントの開催予定や、日本の文化・歳時記
などについて皆さんに、どんどんお伝えしていきます。

  [次の発行は、5月15日(月)の予定です。次回も、お楽しみに!]

                                 (治)

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多くの方に有斐斎弘道館の活動を知っていただきたく思っております。
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