【百人一首】第七回 来ぬ人をまつ…和歌の男と女・ジェンダー①

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第七回 来ぬ人をまつ…和歌の男と女・ジェンダー①

こぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくや藻塩の身もこがれつつ   権中納言定家

百人一首をまとめたといわれる藤原定家の歌です。和歌の歴史をさかのぼって、百首を厳選したのが、この百人一首。そのなかに置かれる編者本人の一首です。そうそうたるメンバーの中に自分の歌を並べるのですから、それなりの気概をもっておかれた特別な歌なんじゃないか、と昔から言われてきました。どんな歌なのでしょうか。

「こぬ人をまつほの浦の夕なぎに」…ってあれ?来ない人を待つ歌だと思ったら、いつの間にか海が見えてきましたね。たどっていくと「来ぬ人をまつ(待つ)」、「まつ(松)帆の浦」ということがわかります。「まつ」という同じ発音の言葉によって、二つの意味が込められているのですね。古典の時間でならった掛詞というやつです。一つの文脈が、知らぬ間に重層性を帯びて、考えもしないところに読み手(そして歌の聞き手)をつれていく。まあ、難しいことを言いましたが、「あたり前田のクラッカー」と同じ発想なので、恐がることはありません。(古いかなあ笑)

来ぬ人を待つ。愛されない現実に、しずかな松帆の浦の夕暮れに焼かれる藻塩のように、身も焦がれてゆきながら…。藻塩とは塩を作るときに焼く海藻です。燃やされる海藻と、恋に焦げゆくわが身とがリンクしています。うーん、私はイメージがつながりません…。

けれど、生活感にあふれた海岸沿いのさみしさはなんだかよくわかります。そのような情景と、来ぬ人を待つ心情がマッチしているように思います。渡辺真知子の名曲「かもめが翔んだ日」も、季節はずれの港町で失恋した女が海を見つめていますね。(生まれる前の曲ですが好きなのです)ところで、「かもめが翔んだ日」は女の物語ですが、この歌の主人公は?定家卿本人なのでしょうか?

実をいうと、和歌の作者と和歌の中の主人公はいつも同じではありません。(現代短歌では、主人公のことを作中主体という人が多いです。)この歌は恋の歌です。恋の歌は男が読むべき恋の和歌と、女が読むべき恋の和歌がありました。ある種のお作法ですね。男はこうすべき、女はこうすべきという時の、性別による違いをジェンダーといいます。

恋の歌を詠むとき、来ぬ人を待つのは女のふるまいなのです。和歌の登場人物は必ずしも作者本人とは限らないといいましたが、和歌という表現形式によって男も女の歌を詠むことができたのです。どうやらこの歌は、和歌の優劣を競う歌合せで出されたようです。恋というお題のなかで、歌詠みたちは自在に男にも女にもなれたのでした。表現形式やお題という枠組みのなかで自由にふるまう。いわばイメージの力をここから感じたりします。

<参考文献>
有吉保『百人一首』講談社1983年11月
久保田淳ほか編『歌ことば歌枕大辞典』角川書店1999年5月
島津忠夫『新版百人一首』角川書店1999年11月
ハルオシラネほか編『世界へひらく和歌―言語・共同体・ジェンダー』勉誠出版2012年5月

(同志社大学文学部 四回生 御手洗靖大)


京菓子展「手のひらの自然 – 小倉百人一首」2017の
入選作について

ブログ連載シリーズ【百人一首を読む・百人一首と読む】は、当時の文学に詳しい御手洗さんに、新鮮な視点で解説いただいております。

今回の解説は、情景の説明から和歌技法の解説になり、いつのまにか渡辺真知子さんの話になり、次に恋とジェンダーの話から「歌合せ」の話題へと、、和歌で使われている「掛詞」のように、次々と流れるように解説いただきました。御手洗さん、ありがとうございます。

さて、(流れるようにとはいきませんね汗)。今回、解説いただいた和歌をもとに創造された京菓子3点が入選作となり、有斐斎弘道館(2点)と旧三井家下鴨別邸(1点)にて展示されております。

和歌の描く「情景やイメージ」と、「菓子の銘」「菓子のデザイン」を合わせてお楽しみいただけますと幸いです。


(娘がれ松(こがれまつ)/伊井花音 有斐斎弘道館にて展示)

 


(藻塩火/寺田庄吾 旧三井家下鴨別邸にて展示)

 


(海乙女(あまをとめ)の唄/名主川千恵 有斐斎弘道館にて展示)

(撮影:久保田狐庵)

展示は11月5日までとなっております。

是非、ご観覧くださいませ。

<京菓子展 公式ホームページ>
https://kodo-kan.com/kyogashi/

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多くの方に有斐斎弘道館の活動を知っていただきたく思っております。
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