嵯峨野文化通信 第104号

 伝統文化プロデュース【連】メールマガジン 
 
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            〔嵯峨野文化通信〕 第104号
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    伝統文化プロデュース【連】は、日本の伝統文化にこめられた知恵と美意識に

          ついて、学び広めていくための活動をしている団体です。

         京都・嵯峨野から、最新の情報を皆さんにお届けします!

               毎月1日・15日(月2回)

                    ★VOL:104(2010/6/1)
 
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  ○(連載)『餅と饅頭ー和漢の境まぎらわす事ー』————– 第十八回
  ○(連載)『ニッポン城郭物語』—————————— 第五十二幕
  ○(連載)『源氏が食べる─平安文学に描かれる食─』———- 第五回
  ○(連載)『北野の芸能と茶屋』—————————— 第八回
  ○(連載)『ちょっとここらで 一休み』———————- 第四回
  ○(連載)『やまとのくには言の葉のくに』——————– 第六十八首
  ○[嵯峨野学藝倶楽部]6月開講講座のお知らせ 

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  101号より通常連載は通常号に、「お知らせ」と座談会は、臨時号にて発行するこ
 とになりました。臨時号もお楽しみに♪

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                  (連載)『餅と饅頭ー和漢の境まぎらわす事ー』
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                   第十八回              
                                    太田 達

   「十八年春三月 高麗王貢上僧曇徴法定曇徴知五經且能作色及紙墨並造碾磑蓋造碾
   磑始干是時欺」(『日本書紀』巻二十二)

  推古紀推古天皇十八年(610)高句麗王から貢上された仏教僧として来朝した曇徴
 の『日本書紀』の記事である。曇徴は、紙や墨の製法を伝えた人物として有名である。
 高校時代、山川出版社の日本史の教科書に載るこの曇徴の名の下に朱線を引かれた事を
 思い出す方も多いのではないかと思う。

  今回は、絵具、紙、墨ではなく「碾磑」に注目してみよう。碾は、中国における「ひ
 き臼」を指す。中国の記録によると、その初見は後漢末期とされている。韓半島におい
 ても、楽浪郡においての記述が確認されている。インド以西においては、小麦の粉食文
 化が古代より発達し、サドルカーン(掏り臼)の形状のものが、その石製であるがゆえ
 に、今も多く遺物として残っているし、一部アフリカなどには、このサドルカーンは現
 役続行中である。
  さて、碾に戻ろう。その構造は、目立てをした二箇の石臼、輪石(ローラー)を回転
 させて精米や製粉を行う石臼である。わかりやすく言えば、宇治の御茶屋さんの店頭で
 廻っている抹茶をつくる石臼である。曇徴がもたらしたものは、『日本書紀』の文脈か
 ら絵具をつくるためのものと考えられる。奈良東大寺の西側の門は「転害門」と呼ばれ
 る。その位置する町名は「手貝町」である。『南都七大寺巡禮記』などによると、もと
 もと「碾磑門」であったとされている。7、8年前であったか、東大寺の旧境内(転害
 門の東北になる一帯)の発掘調査により「碓殿」が確認され、碾磑の一部が発掘された。
 天平の石臼ともいえるこの証拠は、奈良時代の粉食(米粉)の存在の証拠である。

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                          (連載)『ニッポン城郭物語』
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           ─第五十二幕─  ~山科本願寺の話 その2~ 

                                   梅原 和久

  一六世紀前半という極めて早い時期に、他では類を見ない巨大な土塁や堀が築かれた
 山科本願寺。「折れ」や「虎口」といった城郭特有の遺構もはっきりと認められるなど、
 近年になってようやく城郭史の中でも重要な遺跡だと認識されるようになってきた。
  しかし、それはあくまで専門家の中で、であって一般的には知名度はまだまだ低い。
 だからこそ、過去から安易に遺構の破壊が行われてきた。

  山科が要害の地ではないこともあって、本願寺廃絶後の山科は、歴史の表舞台から消
 えた。ただそのお陰で、明治になっても室町時代の遺構である土塁や堀が良好に残存し
 ていたことは、当時の地図などから分かる。
  しかし、ここからの破壊のスピードは早かった。大正六年(1917)、鐘紡山科工
 場が中心部分に進出。そして、最大の破壊は高度成長期にやってきた。「御本寺」と呼
 ばれる寺内町遺跡のど真ん中を、国道一号線、更には東海道新幹線が貫通することにな
 ったのである。遺跡が南北真っ二つに分断されたのだ。その後も、宅地開発が進むにつ
 れ、土塁や堀はどんどん失われていった。

  平成九年(1997)、住宅建設に伴う発掘調査があり、幅九メートル以上、深さ四
 メートルにもおよぶ堀、石組の排水溝、備前焼大甕八個を伴う焼土に覆われた建物跡な
 どの遺構が発見され、大きなニュースにもなった。ただ、これは住宅建設を前提とした
 調査であり、調査後は大規模な土塁共々破壊されることが決まっていた。

  そこで立ち上がったのが関西の研究者を中心に発足した「山科本願寺・寺内町の歴史
 を学ぶ会」の面々であった。彼らはこの遺跡の重要性を訴えるため、手弁当で連続市民
 講演会を開催し、また地元の有志を募って「山科本願寺・寺内町を考える市民の会」も
 立ち上げた。
  度重なる訴えはマスコミや市議会でも取り上げられ、大きな運動となったが、最終的
 には地権者の同意を得ることができず、遺構は破壊されてしまうという残念な結果に終
 わった。
  しかし、話はここで終わらない。この後も、「山科本願寺・寺内町の歴史を学ぶ会」
 は運動を止めることなく、その後もほぼ月に一度のペースで市民向け講演会が行われた。
  そして破壊から五年後の平成十四年(2002)十一月、山科本願寺・寺内町の一部
 が、「山科本願寺南殿跡 附 山科本願寺土塁跡」という名称のもと、なんと国指定の
 史跡となることが決まったのである。それまでは国はおろか、市の史跡にさえ指定され
 ていなかったことを考えると、この会の行動による影響の大きさは計り知れないものが
 ある。そして、こういった有志の地道な活動が実を結んだ例として、特筆すべきものだ
 と言えよう。

  そう、ここまで熱く語ったのは、思い入れがあるからである。平成九年、駆け出しの
 サラリーマンとして忙しい日々を過ごし、学生時代にかじった歴史のことなど記憶から
 消えかかっていたころに参加したのがこの市民講演会だった。初回に参加して以来、事
 務局の一員として活動し、遺跡が破壊された無念さ、国史跡に指定されたときの達成感
 を会の人々と共有してきたのだ。最近は忙しさを理由に疎遠になってしまっているが、
 私の活動の原点と言えることは間違いない。

 (※)今から十年前、「山科本願寺・寺内町を考える市民の会」発行の会報に書いた講
    演会報告(ページの一番下)がこちら。
   http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/3870/tayori-2.htm  

   ちなみに、この会の事務局長(当時)は、京都歴史講座を担当している中村武生さ
  んである。

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                (連載)『源氏が食べる─平安文学に描かれる食─』
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                   第五回
                                  荻田 みどり

  連載第一回で、『源氏物語』中に「食」という語句の用例が少ないと述べた。が、この
 例はある意味ずるい。高貴な人の動作に対して、「食べる」「食ふ」などとは言わないか
 らだ。それでは何というか。よく使われるのは、「召しあがる」と訳される「まゐる」や、
 女房が「さし上げる」意味の「まゐる」など。この連載のタイトルも、実は「源氏がまゐ
 る」でなければ失礼なところ。今回は、本当に「源氏がまゐる」紅葉賀巻の一場面である。

  源氏の正妻の葵の上は、つっけんどんで馴染めない。それでも義父、左大臣への体面も
 あり、この日は左大臣邸へ出かけようと思い立つ。
  その前に若紫の許へ足を運ぶ。琴を教えたり絵を見たりして遊ぶ中、時々女性らしさを
 垣間見せる若紫の成長を嬉しく思う。
  その時、供人が咳払いして呼びかける。外出の時間を知らせる合図である。
  源氏はこまごまと外出の理由を弁明するが、若紫は心細くうつ伏してしまう。源氏の目
 には、すねる姿もかわいらしく、いじらしい。そして、

  「今宵は出でずなりぬ」とのたまへば、みな立ちて、御膳などこなたにまゐらせたり。
  姫君起こしたてまつりて、「出でずなりぬ」と聞こえたまへば、慰みて起きたまへり。
  もろともに物などまゐる。

  「今夜は出ないことにした」と、急遽予定を変更させてしまった。左大臣邸に行けば、
 当然もてなされる。女房に御膳を持って来させ、若紫と一緒に夕食を食べることは、今夜
 は出かけないと確約するパフォーマンスである。当時の貴族は、たとえ夫婦でも別々の部
 屋で食事をとったようだが、疑り深い若紫を信じさせるにはそれくらいしないと、と思っ
 たのだろう。

  いとはかなげにすさびて、「さらば寝たまひねかし」と、あやふげに思ひたまひつれば、
 
  若紫の用心深さはさらに上を行く。出された食事には少し箸をつけただけで、「さあ寝
 てしまいましょうよ」と促す。源氏が寝てしまわないことには安心できないのだ。源氏は、
 「こんな人を見捨てては行けない!」と、まさに骨抜き状態である。
  紫の上は後々も、嫉妬深さが玉に疵と言われる。だがそれこそが、正妻の葵の上さえ霞
 ませてしまうほど源氏がほだされていた一因なのかもしれない。

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                 (連載)『ちょっとここらで 一休み』
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                    第四回
                                   戸谷 太一

  荒 草 不 鋤 乃 祖 玄
  涅 槃 正 法 妙 心 禅
  杜 鵑 叫 落 関 山 月
  誰 在 花 園 躑 躅 前

  今回の詩は、一休さんと直接的には関係ない、関山慧玄(かんざんえげん)という僧の
 ことを語ったものである。
  「地が荒れていて鋤を入れ耕すことが出来ない、これが慧玄であり、涅槃に至るため正
 法の妙心寺の禅である。ホトトギスは関山の月を前に叫び堕ち、誰が花園の躑躅の前にあ
 ろうか。」…と無理やりに訳してはみたが、全く自分の理解が追い付かず、意味不明な訳
 になってしまったことをお詫びする。トホホ…まだまだ勉強が足りませんね。

  関山慧玄に登場いただいたのは、彼の法を受け継いだ謙翁宗為(けんおうそうい)とい
 う方が、今回の話のキーパーソンだからである。
  五山叢林の腐敗に苦しんだ一休さん(当時は周建と称していた)は、17歳で安国寺を
 飛び出した。そして、弟子入りしたのが、西金寺を営んでいた謙翁和尚であった。
 謙翁和尚の禅は、「閑房杜門、高風激世」という孤高の禅であった。一休さんは、貧しく
 も純粋な禅のあり方に心魅かれて西金寺の門をたたいたのだ。この謙翁和尚の下で、一休
 さんは宗純という戒名を授けられる。
  一休さんと謙翁和尚の生活は5年を数えた。謙翁和尚は優れた能力を持つ一休さんに印
 可状を与えようとしたが、和尚自身が師からの印可状を謙譲して断った経緯があり、その
 ために一休さんに印可状を与えることが出来なかった。後に一休さんは、師事した華叟(
 けそう)和尚からの印可状を蹴っているのだが、それはこの謙翁和尚の影響であると言え
 る。
  謙翁和尚は、それほど一休さんの人格形成に大きな影響を与えた。父のいなかった一休
 さんにとって、はじめて厳しく自分を律してくれる父の様な存在であったと言えるだろう。
  しかし、別れは唐突に訪れた。ただ、この別れの顛末を語るには、少しスペースが足り
 ない。なので、これ以降の話は次回に譲ることとする。

  一休さんの青年時代に一つの区切りをつける大きな挫折が、応永21年(1414年)、
 一休さん21歳の時に訪れる…

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                          (連載)『北野の芸能と茶屋』
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                   第八回                  
                                   井上 年和

  延暦十七年(798)8月13日「類聚国史」
  遊猟于北野便御伊豫親王山庄飲酒高会云々、

  伊豫親王は桓武天皇の第三皇子という事だが(異説あり)、桓武天皇も、政務の傍ら北
 野で遊猟を行っていたようだ。
  その他の遊猟の地としては、「柏原野」、「栗前野」、「日野」、「水生野」、「大原
 野」、「栗栖野」、「交野」、「紫野」、「登勒野」など、今となってはどこかわからない
 場所もあるが、おそらく平安京周辺か、日帰りで行き来できる程度の距離の野原なのであ
 ろう。
  その中でも大内裏のすぐ裏の「北野」は手頃な「遊猟スポット」であったかもしれない。

  桓武天皇に引き続き、嵯峨天皇、淳和天皇も度々狩猟で北野を訪れている。
  できて間もない頃か、まだ建設中かもしれない平安京を飛び出して、日頃の鬱憤を晴ら
 しに猟にでかけて酒を飲む ・・・ なんて楽しそうなストレス発散法だろう。
  などと、ついつまらない夢想に走ってしまうのは、現代社会に生きるサラリーマンの悲
 しい性なのだろうか・・・

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                     (連載)『やまとのくには言の葉のくに』
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                   第六十八首             
                                   田口 稔恵

   伊勢の海に朝夕(あさなゆふな)に海女の居て採り上ぐるなる鮑の貝の片思ひなる
 (『梁塵秘抄』巻2)

  (伊勢の海に朝夕いつもいる海女が、海底から採るという鮑。その鮑には二枚貝のよ
  うに、ぴったり合わさる殻がない。そんな鮑のように、私の恋も片思いなのです。)

 
  貴族や大名の娘が輿入れする際の道具の一つに、貝桶がある。桶の中の貝は蛤など二
 枚貝。貝の内側に絵が描かれているのだが、もともと一つであった2枚の貝殻には同じ
 絵を描いて、トランプの「神経衰弱」のように絵を合わせて遊ぶ。

  二枚貝は、もと一つであった貝とのみ形が完全に一致するとされ、それゆえ、「代わ
 りのない人との結婚であれ」と、夫婦の幸せを願って嫁入り道具とされたのだろう。豪
 華な組紐で飾られた貝桶は、縁起のよい図柄として、現在でもお祝い事にかかわる物品
 に使用されている。

  二枚貝と対照的に詠まれるのが鮑。一枚貝で、岩に張り付いている。思い会えない片
 恋の象徴として詠まれてきた。
  荒波にもまれ、ひとり暗い海底でじっと堪え忍ぶ鮑の姿は、辛い恋に涙するいじらし
 い人の姿とも重なる。

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 ◆[嵯峨野学藝倶楽部] 6月開講講座のお知らせ ◆
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 詳しくは、http://www.ren-produce.com/sagano/club/をご覧下さい。

 ★「茶道教室(土曜日コース)」
  日時:6月5、12、19日(いずれも、土)
  時間:15時~20時(ご都合の良い時間にお越し下さい)
  講師:西村 宗靖・太田 宗達
  ※見学/体験も、随時受付けています。

 ★「茶道教室(水曜日コース)」
  日程:6月9、23日(いずれも、水)
  時間:13時~18時(ご都合の良い時間にお越し下さい)
  講師:西村 宗靖・太田 宗達
  ※見学/体験も、随時受付けています。

 ★「京文化を語ろう」
  日程:6月12日(土)
  時間:11時~12時30分(90分)
  講師:太田 達
  テーマ:「宗教から京都を考える~愛宕~」
  参加費:1回1,000円(茶菓子付)
  ※1回のみの参加も、随時受付けています。

 ★「今様・白拍子教室」
  日程:6月12、26日(いずれも、土)
  時間:13時~14時(60分)
  講師:石原 さつき
  ※見学/体験も、随時受付けています。
   性別・年齢・経験は問いません。

 ★「京都歴史講座」
  日程:6月20日(日)
  時間:11時~12時30分(90分)
  講師:中村 武生
  テーマ:「鎌倉幕府の史蹟顕彰ー鎌倉青年団による約80の石碑」
  参加費:1回 1,000円 (茶菓子付)
  ※1回のみの参加も、随時受付けています。

 ★「うたことば研究会」
  日程:6月26日(土)
  時間:15時~16時(60分)
  監修:田口 稔恵
  ※資料代等が必要です。詳細はお問合せ下さい。

 お問合せ・お申込みはコチラまで→ sagano@ren-produce.com

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  そろそろ蛍が飛ぶ頃でしょうか?
  まだ、少し早いですかね。
  今年は冷夏だというので、蛍もすこしのんびり出てくるかもしれません。

  夏の風物詩、蛍。皆さんはどんな蛍を思い浮かべられるでしょうか?
 私の場合、田んぼの匂いと蛍取りに使う竹箒、それと今は亡き祖父ですかね。
 おじいちゃんが竹箒を持ち、私と兄弟が虫籠を首から提げて、蒸し暑い夜に、よく蛍狩
 りへと出かけていました。懐かしい。
 
  じんわり光る蛍火は、人を感傷に浸らせる力を持っていますよね・・・。

                                (きしもと)

     [次回は、6月15日(火)に配信予定です!次回もお楽しみに。]
 
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多くの方に有斐斎弘道館の活動を知っていただきたく思っております。
記事が面白かったら是非、シェアいただけると幸いです。