嵯峨野文化通信 第8号

☆★☆————伝統文化プロデュース【連】メールマガジン—————-
       〔嵯峨野文化通信〕 第8号 2006年6月1日
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 伝統文化プロデュース【連】は、日本の伝統文化にこめられた知恵と美意識に
 ついて、学び広めていくための活動をしている団体です。

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 ○●○ もくじ ○●○

 1.【連】からのお知らせ
 2.京都をめぐる歳時記 〜芒種の章〜
 3.(連載)『Many Stories of the Tea Ceremony』
 4.(連載)『ニッポン城郭物語』
 5.メンバー紹介

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§――1.【連】からのお知らせ―――――――――――――――――――――§

○「都ライト'06」

 第7号でもお伝えしましたが、6月2日〜4日にかけて「都ライト'06」が開
催されます。【連】では、花街文化研究会のスタッフとして昨年同様、上七軒会場
のサポートを行います。上七軒会場では、「第2回 北野上七軒を語る会」(3日
のみ)、「元お茶屋さん一部公開」(3日と4日のみ)、「昭和初期の上七軒の写
真展示」の3つのイベントを開催します。格子を通じて外にもれる「暮らしの光」
を体感しに、ぜひお越しください。詳細は、下記のホームページをご覧ください。

「都ライト’06」のお知らせのホームページ
http://www.ren-produce.com/kagai/miyako_light/

○「貸会場」のご案内

 お茶会や展示会をやりたいけど場所がない… そんな方はいらっしゃいませんか?
「嵯峨野学藝倶楽部」の会場となっている「三壷庵(さんこあん)」では、京間6
畳2間つづきの2階を貸し出しています。アート作品の展示やお茶会、邦楽・邦舞
などの稽古場としてもぴったりです。必要に応じて、道具の貸出しなどもいたしま
す。詳しくは、下記のホームページをご覧ください。

●「貸会場」についてのホームページ
http://www.ren-produce.com/sagano/kaijyou/kaijyou.html

○「嵯峨野学藝倶楽部」からのお知らせ

 5月30日(火)の京都新聞朝刊に、「嵯峨野学藝倶楽部」の記事が載りました!
京都新聞電子版にも載りましたので、下記のURLから、ご覧ください。

●「嵯峨野学藝倶楽部」(京都新聞電子版)
http://kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2006053000032&genre=K1&area=K1H

§――2.京都をめぐる歳時記 〜芒種の章〜 ――――――――――――――§

 二十四季節は、太陰暦を使用していた時代に、季節を現すための工夫として考え
出されたもので、1年を24等分にし、その区切りに名前をつけたものです。6月
6日〜21日は、そのひとつ「芒種(ぼうしゅ)」です。

 「芒種」は梅雨入りの前で、昔の田植えの開始時期にあたります。『暦便覧』に
は、「芒(のぎ)ある穀類、稼種する時也」と記されています。「芒種」の「芒」
は、「禾(のぎ)」のことで、稲籾(いねもみ)の先に付いている棘のようなもの
のことをさしています。つまり、稲の穂先のように芒(とげのようなもの)のある
穀物の種まきをする頃という意味です。

 昔は、種まきも田植えも遅く、これからの時期といった感じでしたが、品種改良
や気候の温暖化などにより、現在では、5月中には種まきや田植えが終わるように
なりました。

 ちなみに「芒種」の時季には、かまきりや蛍が姿を現し、梅の実が黄ばみ始める
頃なんですよ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜「芒種」の時季を楽しむために〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

○竹伐り会式

 竹伐り会式(たけきりえしき)は、水への感謝と災禍を断ち切り吉兆を祈る儀式
として、今に伝えられています。毎年、6月20日に、義経伝説で有名な「鞍馬寺」
において行われ、「蓮華会」とも云われています。

 その起源は古く寛平年間(889〜897)まで、さかのぼります。平安時代の
初期に鞍馬寺の中興の祖、(※1)峯延(ぶえん)上人が修行中に現れた大蛇を切
り捨てた(※2)故事にちなむ行事で、青竹[長さ4cm、太さ10cm]を大蛇
に見たてて、五段に切り分けます。この青竹は雄蛇を現しています。江戸時代の中
期からその儀式は「近江座」と「丹波座」に別れ、竹を五段に伐る早さを競うよう
になりました。早いほうの地域が、豊作になるといわれています。

(※1)峰延上人・・・鞍馬寺で修行をされた、東寺のお坊さん。
(※2)峰延上人が山中で修行されていた時、1匹の大蛇が現れて襲いかかろうと
しました。上人は一歩も退くことなく仏の道を説きましたが、それでも大蛇はやめ
ようとしませんでしたので、上人が真言の秘法を唱えると、大蛇は死に絶えました。
数日後、もう1匹、大蛇が現れましたが、その大蛇に仏の道を説くと教えが伝わり
「鞍馬山の聖水を絶やさず守る」という誓いをして許され祀られたといわれていま
す。

 [日 時]:6月20日(火)午後2時から
 [場 所]:鞍馬寺(左京区鞍馬本町1074)
 [拝観料]:200円(愛山費として)

§――3.(連載)『Many Stories of the Tea Ceremony』――――――――――§

   第4話 ―京大西部講堂篇―
                         濱崎 加奈子

 京大西部講堂といえば、1960〜70年代には学園紛争のメッカとなった象徴
的な建物だが、先日、ここでプロデューサーであり画家でもある木村英樹さんの出
版記念パーティーが開かれた。そのパーティー会場で茶会を担当することになった。

 普段は学生がダンスやら創作劇やらで使っている講堂に、プロの音響、プロの貸
しもの屋、プロの照明が入る。そして、華道家が花を生ける。蕎麦屋が屋台を準備
する。壊れたガスストーブや灯油缶がゴロゴロと転がり、数十年の埃を闇に溜めこ
むがごとき西部講堂は、みるみるうちに、パーティー会場に変身していく。400
人もの盛装した男女を迎える、会場へ。

 茶室は、会場の後方正面、舞台と対峙するように建てられた。四面を障子で組み
立てられた内部に、二畳の点前座(※註1)。障子には白い柳が全面に描かれてい
る。床(とこ)は背面がアクリル板になっていて、一面に描かれた蓮葉の合間から
舞台を透かして望むことができる。同じくアクリル製の風炉先(※註2)と長板に
も木村さんの蓮が描かれ、その長板の上には、柳とツバメが描かれた木地の水指(
※註3)が置かれる。もちろんこれも木村さんによるもの。

 さて、客は、講堂の壁に沿って貼られた暗幕の露地――蹲踞や露地行灯(※註4)
が配されている――をつたい、まずは茶室へと導かれる。茶室は薄暗く、ブラック
ライトだけが灯っている。障子に描かれた柳が白く浮かび上がる仕掛けだ。
 亀屋伊織製の干菓子をいただき、薄茶を一服。
 点前座の亭主の背中には、大きな白いツバメが2羽。ブラックライトに妖しく浮
かび上がる。

 突然、舞台でロックの演奏が始まった。内田裕也さん、井上堯之さんら、ロック
界の大御所たち。着席していた上品な客たちも、一人、また一人と立ち上がる。7
0代後半と思われる老夫婦も、ついに立ち上がり、リズムを刻みはじめた・・・。

 さて、大音量のなかでお茶が成立していたのか? それはYESであったように
思う。音は茶室をみごとに非日常の空間へと仕立てていた。
                                   (了)

(※註1)点前座(てまえざ)・・・亭主が茶を点てるために座る場所。
(※註2)風炉先(ふろさき)・・・風炉先屏風の略称。点前座の向うに立てる二
枚折の屏風のことで、広間で用いる。
(※註3)水指(みずさし)・・・点前中に、釜に補う水や、茶碗、茶筅などをす
すぐ水を入れておく器。
(※註4)露地行灯(ろじあんどん)・・・露地の照明用具。
                       (淡交社『茶道用語辞典』より)

§――4.(連載)『ニッポン城郭物語』――――――――――――――――――§

                ―第四幕―
                                 梅原 和久

 尼崎や高槻、京都北部では宮津などにお住まいで、「自分がかつての城下町に住
んでいる」という実感を持っている方は、どれくらいいらっしゃるだろうか。ほと
んど皆無に近いのではないか。それは、大抵の「元城下町」では、城は観光の中心
地となっており、実際には存在しなかった場所にまで城郭風の建物が建っている町
すらある、からにも係わらず、である。この違いは何だろうか。

 答えは一つ、遺構が何もないからである。一般的に考えて、ほんの百数十年前ま
で町の中心部の広大な敷地に、石垣や堀などを含んだ大規模施設があったのだから、
その痕跡くらいあっても良さそうなものだ。それがこれらの町には全くないのだ。
あるのは橋桁として使われていた石一個と屋根瓦二枚(尼崎)、石垣に使われてい
た石数個(高槻)、同じく石垣の石数個(宮津)程度。これでは城跡と呼べようは
ずもない。(※)

 明治を迎え、城が無用の長物とされたことは前回述べたが、時代を経るにつれ、
城は徐々に姿を消していった。建物は資材として現金化するために解体され、堀は
埋め立てられた。特に外堀は、封建時代には城と周囲を隔絶するために有用でも、
通行するためには邪魔以外の何物でもないからである(衛生面の問題もあった。堀
は整備しないとヘドロがたまって悪臭を放ったり、ボウフラがわいて伝染病が蔓延
する原因にもなるため)。

 と、ここまでは普通の城の場合。これらの町の場合は、ここからの破壊も徹底し
ていた。まず、尼崎城の場合は、尼崎港の防波堤の修築時期と重なったため、石垣
が根こそぎ持って行かれた上、わずかに残っていた石垣も、昭和30年代半ばの第
二阪神国道開通に伴って完全に撤去されてしまった。同様に高槻城は東海道本線の
敷設、宮津城は宮津港建設のために石垣が転用されたことで、完全にその姿を消し
てしまったのである。

 城が「文化財」として認知されるのは後の話。封建時代の記憶が生々しい明治初
年には、旧体制の象徴でしかない城が破却されるのはごく自然なことであっただろ
う。その意味で、新時代建設のための文字通り「礎」となり、第二の人生(城生?)
を全うすることのできたこれらの城は幸福だったと言えるのかもしれない。城マニ
アにとっては「無念」としか言いようがないが。

※尼崎と高槻には、近年城跡に申し訳程度の公園が作られ、堀や石垣のようなもの
もある。しかし、これは本来の城とは無関係な代物。騙されないように。ちなみに、
高槻と宮津については、地下に石垣等の遺構が確認されている。また、実際の建物
の遺構としては、高槻城の門二棟、宮津城の門一棟が近辺に移築され、現存してい
ることは特筆しておく。
                                (つづく)

§――5.メンバー紹介―――――――――――――――――――――――――§

 【連】のメンバーによる、自己紹介のコーナー。
8人目に登場するのは、三木祐美さんです。

 京都で建築の勉強をしていながら、実際の町づくりの様子、生活の様子を知らな
かったことに気づき、あわてて【連】の「花街文化研究会」に参加しました。

 春から社会人になった今、未だうまく自分の時間を作れていませんが、忙しいな
かでも文化体験できる時間は何としてでも作り出さなくては、と思っています。

 いつか、バランスがとれる日を目指してがんばります。

○O+編集後記+O○*****************************************************

 梅雨どきになると、あちこちで紫陽花(あじさい)を見かけることが多くなりま
すね。紫陽花の花言葉って、青や紫に色を変えることから、「移り気」「浮気」
「変節」なんだそうです。でも、フランスでは紫陽花の花(青色のみ)が、一ヵ月
以上も咲き続けることから、「辛抱強い愛」という花言葉があるそうです。
 紫陽花を見ても、日本とフランスでは表現方法が違うなんておもしろいですね。

 これからも、【連】では様々なイベントの開催予定や、日本の文化・歳時記など
について皆さんに、どんどんお伝えしていきます。

  [次の発行は、6月15日(木)の予定です。次回も、お楽しみに!]
                                  (治)

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多くの方に有斐斎弘道館の活動を知っていただきたく思っております。
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