淇園の時代の京都
淇園が生きた江戸時代の中ごろ、1750年代前後には、庶民文化の中心は上方から江戸に移りますが、公家や上層町人がたしなんでいた学問、芸術は、京都に平安時代からの長い蓄積があり、全国各地から多くの若者が学びに来ていました。
そのころの京都には伊藤仁斎の古義堂をはじめ、私塾がたくさんありました。皆川淇園が晩年に開いた学問所、弘道館もそのひとつです。淇園は博学なことで知られていますが、当時の文人たち(書や画を描き、詩や歌を作り、茶の湯や煎茶、花、香などを楽しむ知識人)も好奇心が旺盛で、ジャンルを横断して、多くの雅号を名乗り、異分野の交流がさかんでした。ここに絵と詩歌が響き合うような、思いがけないハイブリッドが生まれるわけです。
淇園をめぐる人々
書画を愛する淇園、漢学者の柴野栗山、画家の円山応挙や長沢芦雪たちは、鎖の輪のように重なり合い、詩歌の贈答、書画の揮毫などを通じて、ゆるやかにつながっていました。与謝蕪村、池大雅、漢詩人の六如、画家で琴の名手の浦上玉堂も淇園に賛や序文などを書いてもらい、淇園は応挙に絵を習っています。
九州平戸藩主の松浦静山は門人として淇園を支え、弘道館の開設を助けました。静山と淇園、そして大坂の博物学者、木村蒹葭堂はとくに親しい三人組。蒹葭堂は煎茶の好きな
作家上田秋成の友人です。くしくも淇園、秋成、六如は同じ1734年の生まれ、応挙は一つ違いの同世代だったのです。
書画会というイベント
淇園は大規模な書画会を主催したことでも注目されます。それは、1792年から1798年までの春秋、合計14回開かれた「新書画展観」です。江戸の画家にも声をかけ、京都円山の料亭、也阿弥に、各地から作品を持ち寄って競い合いました。「席画」という、その場で描くライブあり、合作あり、宴会ありの賑やかなイベントで、長沢芦雪はここの常連でした。これが日本で最初の展覧会です。
淇園はネットワークの中心人物でした。門人帳に載っているだけでも、一三一三人。六歳の少年から、最高齢は六十六歳までが、京都近辺だけでなく、江戸、東北、北陸、四国、九州からも入門しています(宗政五十緒校注『有斐斎受業門人帖』上方藝文叢刊5『名家門人録集』所収、1981、八木書店)。弘道館は多くの人に開かれた、学びの場であり、よく学び、よく遊び、人が人に出会う場でした。今も、これからも、そうでありたいと願っています。
次の写真は、京都の人名録『平安人物志』天明二年(1782)版(国際日本文化研究センター所蔵)です。①に皆川淇園、②に円山応挙・伊藤若冲・与謝蕪村の名前と住所が載っています。