茶庭は、茶室へのアプローチ
茶庭は「ろじ」と呼ばれ、「露地」あるいは「路地」などと書かれます。桃山時代の頃は「路地」と記されていました。その「路地」はまさに「みち」であり、特に植栽や配石を行わないもので、京や堺などの当時の大都市の裏庭に設けられた茶室へのアプローチとして造られたものです。なかには茶室の前や脇に設けられた囲いとして「坪の内」と呼ばれる形式のものもありました。
市中で自然を感じる仕掛け
茶の湯空間を造るとき、深く自然の中に囲まれているような仕掛けを作る必要がありました。自然を意識するのは、彼らが足利義政の営んだ茶の湯空間、東山殿(銀閣寺)のような形式を理想としたからです。もちろん自然を大切にするのは日本古来からの意識ということもできます。一方、都市の中心部における町家の裏庭は日常生活が営まれる場所です。そこに自然に囲われた空間を造ることは非常に困難なことなので、彼らは新たな手法を考案しました。「市中の山居」です。それは具体的な自然というより、むしろ心で自然を感じることでした。日常の雑踏から切り離し、自然を感じさせるヒントとなるもの、例えば丸太や土壁に囲われた空間をつくりました。当時日本に滞在していた宣教師ジョアン・ロドリゲス、あるいはのちの茶人の立花実山は、それを宗教になずらえます。「路地」は、実用的なアプローチとしての役割を担うとともに、心で自然を感じる空間だったのです。
「みち」であり庭でもある「露地」へと発展
その後江戸期に入ると、書院造庭園と茶の「路地」が融合するようになり、「みち」としての機能を基本としながら、植物や石あるいは水など観賞的要素を積極的に取り入れた庭園が設けられます。より具体的な自然を感じる空間が造られるようになったのです。ここに桃山時代からの精神性と実用を重視する庭園と、具体的な自然を観賞する庭園、またその中間に位置するものとヴァリエーションが広がり、実用と観賞と精神性を持つものとして「露地」との表記も多くなります。そしてその流れは近代にもつながっていきます。
弘道館の庭から、
江戸時代・皆川淇園の学問所をしのぶ
さて、江戸中期の儒学者の皆川淇園が開いた弘道館の跡地に、明治32年(1899)、現在の弘道館の元の建築と庭園が造られました。玄関と啐啄斎好の七畳の茶室あたりがその時の遺構と考えられます。その後の昭和17年(1942)に大幅に手が加えられ、広間十畳や茶室六畳の周辺が調えられ、そして庭園もこの頃整備されたものが今に至っていると考えられます。
弘道館は上長者町通り、室町通りと新町通りの間の細い路地奥に位置します。上長者町通りに面した門から北に向かって、竹が詰め打ちされた塀が両側に立ち、玉石を霰零しの形式に敷き詰めた延段を持った路地が、細く長く伸びています。右下に白く有斐斎と染め抜かれた緋色の暖簾の掛かった中門を越えると、空間が少し広がりを見せ、奥に構える建築の姿が現れます。延段は二筋になり、右が土間の入口、左が式台を備えた玄関へと分かれ、さらに左側の塀には門が開けられていますが、これを越えると茶庭につながり、露地口としての役割を果たしています。
この辺りに、かつての皆川淇園の学問所があったと推定される。
座敷と茶室に連続し、
使い方で表情を変える露地
茶庭としての庭園は、啐啄斎好み七畳や広間十畳の座敷の南の庭から、六畳の茶室の西側に連続します。露地口から入ると、飛石に沿って弧を描くように、地面のレベル差に低い仕切り板を設け、少し起伏した部分の中央にイヌマキが植えられています。七畳へは、起伏を巻くように、西側の土間庇より直接座敷へ上がり込むアプローチと、南側の縁より上がり込むアプローチが用意され、西側には低く据えられた蹲踞があり、草庵の風情をみせ、南側のアプローチは矩折れの縁先に手水鉢が備わり、やや書院風の形式となり、使い方によって表情の変わる工夫がなされています。
著書に『茶の湯空間の近代』(思文閣出版)『近代の茶室と数寄屋』(淡交社)『世界で一番やさしい茶室設計』(エクスナレッジ)『茶室露地大事典』(共著、淡交社)など。