【百人一首】第二回 秋はかなしき

【百人一首を読む・百人一首と読む】第二回 秋はかなしき

おくやまに紅葉踏分けなく鹿の声きくときぞあきは悲しき 猿丸大夫

この歌を読む時、絵画のような美しい風景が胸に迫ってきます。
今回は、なにとなく悲しい、秋の世界を読んでみましょう。

ところで、「秋は切ない」とは誰が決めたのでしょうか?平安時代の物語、『源氏物語』では、すでに「須磨には、いとど心づくしの秋風… 」と言って、秋風が「心づくし」のもの(様々な物思いがわきたてられるような、憂鬱なきもち)とされています。都を抜け出して須磨に行かざるをえなくなった、自らの境遇への嘆きと、秋の風がリンクしています。作者紫式部は、秋を舞台にして源氏の憂鬱を描いたのでした。心にくいですね!

『古今和歌集』の前の時代にまとめられた、『万葉集』では、秋の悲しさはほとんど詠まれません。漢詩や漢文といった大陸の文化が土台となった、平安時代の『古今和歌集』からそのような思いが詠まれていきます。この歌も、『古今和歌集』の歌です。

『古今和歌集』や『源氏物語』といった、日本人美意識に関わる古典から、秋の悲しさはあらわれているのでした。そして、その日本人の感性も、もとをたどれば東アジアへとつながるのですね。

この歌の切なさはもう一つ、「鹿の声」にあります。聞かれたことはありますか?私は関西人なので、奈良公園によく行くのですが、奈良公園では、秋から冬にかけて、牡鹿が妻を求めて鳴いているのを聞くことができます。妻を求めて牡が鳴いている…これだけで涙ぐましいものですが、その鳴き声の、あまりにか弱く愛らしいこと…。立派な角を持った屈強な獣が「きゅーん」と鳴くのです…。かわいい…。

紅葉とは、紅葉した葉っぱのこと。くらい山奥、降りしきる紅葉を踏み分けながら、屈強な獣としての鹿が一頭、鳴いている。非常に絵画的な、美しい風景が、たちあらわれてきますよね。

紅葉と言えカエデを思い浮かべますが、実をいうと、この歌の紅葉はカエデではない、と言われています。けれど、後世に伝えられていくにつれて、カエデと鹿という典型的な取り合わせで読まれるようになって行ったのでした。古典から文化と美を作る営みがなされているのです。

百人一首の歌を手のひらの和菓子にするという営みも、ある意味で古典から文化と美を作る営みであるといえます。歌を様々に描いてみることで、この歌のようにあらたな美意識が生まれていくかも知れません。

参考文献
島津忠夫『新版 百人一首』角川書店1999年11月(歌本文もこれによる)
阿部秋生ほか校注・訳『新編日本古典文学全集 源氏物語2』小学館1995年1月

(文責:同志社大学四回生 御手洗靖大)

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