「弘道館」ロゴの由来について

有斐斎弘道館石標
 儒者皆川淇園(みながわ・きえん)は通称を文蔵といい、字(あざな)は伯恭(はくきょう)、諱(いみな)は愿(げん)。淇園は『詩経』に謡われた淇水の岸辺、竹の名所にちなんだ号である。別号を有斐斎という。25歳から文化4年(1807)74歳で没するまで49年間、官に仕えることなく、京都で漢学の基礎と儒教の古典を教え、教科書、注釈書を次々と出版した。主著は孝悌忠信恕敬恭倹など儒教道徳の基本概念60を詳説した『名疇』(めいちゅう、天明4年1784序)。門人は公家、大名、武士、僧侶、医師など、全国に及び、門籍に登る者およそ三千余人と謳われた。文字通りの鴻儒であった。独自の言語理論に基づいて古代儒教倫理の解明を追求するかたわら社交にもすぐれ、学芸界の大御所として君臨した。また、上下を問わず階層を越えて人々の求めに応じ、夥しい詩文書画をものした。奇物の博物記事も多い。

 こうした淇園の長年にわたる幅広い業績はその最晩年、文化2年(1805)に門人たちの支援に支えられ落成した私学校の創設として結実した。名付けて弘道館という。淇園は前年に自宅の西隣(中立売室町西)に土地を購入した。そこに学堂を建て儒学教育の拠点としようとしたが、資金が足りない。淇園から切々たる嘆願の書状を受け取り、最大の援助の手を差し伸べたのは、淇園の門人にして平戸藩主の松浦清(まつら・きよし)であった。弘道館落成の翌年、藩主を致仕し、静山を名乗った。

皆川淇園の肖像
 静山は江戸の総合文化情報事典とも言うべき随筆集『甲子夜話』278巻の著者として名高い。静山と淇園の出会いは天明3年(1783)10月17日にさかのぼる。静山は参勤の途上、大阪でたまたま京都から遊びに来ていた淇園に会い、師の礼をとった。時に静山24歳、淇園50歳。以来、参勤で大阪を往来するたびに、静山は淇園を迎え、「あるいは舟を同じくし、あるいは座を設け、道を問い義を謀り、呼びて老先生となし、名を言わず」(静山公行実)という間柄になった。静山は淇園の著作のいくつかを平戸藩蔵版としたのみならず、重臣長村鑑など家臣たちを、さらに継嗣の松浦熙(まつら・ひろむ)をも淇園に入門させている。静山は淇園をはじめ東西一流の学芸の師をして、熙に貴公子としての教養を授けさせたのである。また、淇園、静山共通の学問仲間、大阪の町人学者木村蒹葭堂も加わった三者間の親密な知的交流、文物のやりとりの模様は、蒹葭堂日記や静山の蔵書目録、静山への二人の書状などが如実に伝えている。

松浦静山肖像
 平成25年(2013)、淇園の弘道館跡と敷地が重なる由緒ある場所に、淇園の幅広い学芸精神に学び伝統的日本文化を現代に生かす様々な文化活動を目的として、公益法人有斐斎弘道館が設立された。同法人が活動を本格化させる上で、そのロゴの制作は必要不可欠であった。昨年夏、同法人代表理事兼館長の濱崎加奈子氏より相談を受けるや、すぐに松浦静山の温和にして風格のある筆跡を思い浮かべた。静山が収集した「平戸藩楽歳堂文庫」の蘭学資料の書誌的調査に長年従事してきた関係で、静山の筆跡を毎回のように眼にしていたからである。

 上京区寺町通今出川上ル、阿弥陀寺の皆川家墓地に立つ巨大な御影石の「皆川弘道先生墓表」(題字)は松浦静山の撰文、膳所藩主本多康禎の書になる。風化のため、題字以外は今や読み取るのが難しい。幸いなことに、平戸の松浦史料博物館には、この墓表の建設当時の拓本(軸装)とともに、静山自筆の「明経先生墓表」一巻(絹本)が伝わっている。明経は弘道とともに、淇園の諡(おくりな)である。本文(白文)は毎行24字、62行にわたって、総計1506字からなる。末尾には「文化五年戊辰八月 門人 前平戸城主壱岐守源清拝撰」との署名がある。この撰文中に、弘道館建設の由来を述べた一文がある。曰く、「文化乙丑、宅の西鄰を買う。門人と諮り将に学堂を剏(はじ)め、以て大いに斯道を弘めんとす。聞く者懽(よろこ)び応じて各(おのおの)財を捐(す)て工を助く。年経て竣(おわり)を告ぐ。命じて弘道館と云う。」(原漢文)

文字使用許可書
 昨年(2015)9月下旬、松浦史料博物館の岡山芳治館長のご高配のもと、あらためて静山自筆の墓表絹本を調査のうえ、「弘道館」の3文字を撮影させていただいた。本年3月、松浦静山と皆川淇園の深い師弟の交わりと有斐斎弘道館発足の趣意にかんがみ、松浦静山自筆「明経先生墓表」中の「弘道館」をロゴ制作の原字に採用させていただきたい旨、公益財団法人松浦史料博物館の松浦章理事長にお願い申し上げたところ、たちどころにご快諾を賜わり、3月23日付けで、有斐斎弘道館代表理事、太田達氏および濱崎加奈子氏あてに、文字使用許可証をいただいた。松浦章理事長および岡山芳治館長に心より感謝申し上げる次第である。
 有斐斎弘道館がますますその活動を発展されんこと祈念しつつ、擱筆とする。

平成28年12月24日

京都大学 名誉教授
松田 清

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