現在の弘道館の建物/庭

皆川淇園は、その最晩年、文化三年(一八〇六)に私塾弘道館を開くが、それが現在の有斐斎弘道館の建つ場所であった。しかし、嘉永七年(一八五四)、御所内の庭園より発した火災は、またたく間に内裏、そして当時の京都の町の半ばを焦土となす大火となった。内裏近傍に建つ弘道館も、その大火で類焼したと考えられる。
その後、糸割符商・酒問屋を営んでいた「嶋臺(しまだい)」の十一代・山田長左衛門純が、この地約五百坪を買得したのが明治三十二年(一八九九)であった。このとき現在の有斐斎弘道館の元の姿が形成されたと考えられる。そして、所有者の変遷もあって荒廃し、取り壊されようとしていたが、平成二十一年(二〇〇九)、研究者や企業人らの有志により一時的な保存を成し遂げ、その後、公益財団法人有斐斎弘道館として、淇園の心を受け継いだ伝統文化に関わる教育とその発信拠点として整備された。

建造物について

建物は京都御苑の西、神長者町通の北側の奥まったところに位置している。通りからは細長い路地が延び、通りに面して表門、そしてその奥に中門を立てている。
路地には両面に竹の詰打張の高塀が立てられ、その内側には植栽が施され、足元には自然石を敷き詰めた延段が敷かれている。

(表門)

門

 
(中門)

入り口

 
玄関の近くに、啐啄斎好み七畳写しの席がある。
現在では、西側から広間十畳を主室とし、六畳の次の間、半間幅の二畳の取合、釣床を構えた六畳が一直線に並び、また、広間十畳の北側には六畳の茶室が位置する。

 

露地について

茶庭としての庭園は、啐啄斎好み七畳写しの西側、広間十畳の南から西側に広がる。
この庭園は、中間に四つ目垣が南北に配され、梅見門形式の中門が立ち、南庭と西庭に分かれる。南庭は七畳への露地として機能する。七畳へは、西側の土間庇より直接座敷へ上がり込む形式である。
広間十畳から南と西に広がる庭園は、時計回りに六畳への露地として機能する庭園である。先の梅見門を超えると西庭になる。

 

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有斐斎弘道館の建築は、一見さほど特徴もない町家風の風情とみえるが、細部に目を配ると、材料の使い方やその組み立てに技巧を凝らし、まさに数寄屋のお手本のような表現手法が駆使された建築である。そして周囲の庭園と共に、非常に密度の高い茶の湯空間を構成している。

『平成のちゃかぽん』
「有斐斎弘道館弘道館の茶室と露地(京都建築専門学校副校長  桐浴邦夫著)」より一部抜粋

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