“怪物”と呼ばれた学問。
皆川淇園の「開物学」 

著 廣瀬 千紗子

皆川淇園は、儒学の経典の注釈は膨大にあるが、それらが主観によってまちまちであることを批判し、一つの真理に到達するには、言葉の意味を解釈するための一般的な方法が必要だと考えました。そのために独自に確立したのが「開物学」という学問です(浜田秀「倫理・言語・身体―淇園開物学管見―」『近世京都』第一号、2014・7)。

しかし「開物学」はあまりにも独特で、思考方法が複雑なので、当時から「怪物学」と呼ばれるほどでした。専門家でも「難解で分からない」のだそうです。なかなか手ごわい学問ですが、天理大学の浜田秀先生が「開物学」の研究をしておられるので、浜田先生の論文に教わりながら、少し説明してみましょう。

「物」を明らかにする

「開物成務」(人知を開発して事業を成就させること)という言葉が儒教の経典『易経』にあります。「物を開く」とは「物」を「明らかにする」こと。「物」には文字も含まれるので、文字の意味を明らかにすることです。人は言葉で意味を理解しますが、言葉の元は声で、上古の人は私的な先入観なく、自然に感じたままの声を発し、純粋で理想的なコミュニケーションが成立していた、と淇園は考えました。その自然な声を再現しようとして、「気」という概念を用います。「気」は、世界、人間の感覚、身体、音声を貫いて運動する、というわけです。そして、人間が体内から発する声気の運動を可視化しようとして、易の陰陽・十二律・七音などを複雑に組み合わせて音韻図を描きました。これが超難解。淇園の門人たちも悪戦苦闘しています。七音とは「宮・商・角・徴・羽・変徴・変宮」で、現在の雅楽などに用いられる音階です。

声という身体性に着目

さて、淇園は、人間の自然な声に着目したことが分かりました。経典の解釈には、主観的思考によって意見の対立があるので、これを「知性」で解決することはできない。知性の限界を超えるのは「感性」であり、自然に感じて発せられた声には意味が含まれている、と考えたのでした。当時の知識重視の学問の世界では、きわめて異端。そして、膨大な経典の解釈を、「感性」によって一つの真理に近づけようなどとは、何と壮大な発想でしょう。なかなかついてゆくのは大変です。しかし、知識に振り回されず、意味の世界を、人の声という身体性によって理解しようとする姿勢には、心惹かれるものがあります。

ただし、上古の人ではない我々は、まず振り回される程の知識を得て、「知性」を身に着けてからの話であって、安易に「感性」に走ってよいということではありません。そこは心しておきたいところです。

廣瀬 千紗子
同志社女子大学名誉教授 有斐斎弘道館理事