処士皆川弘道先生のこと

著 松田 清

皆川弘道先生墓表 阿弥陀寺皆川家墓地      (2010年4月10日撮影 松田清)

「彼の淇の奥を瞻(み)れば、緑竹猗猗(いい)たり」(あの淇水の奥をながめると緑竹のなよやかな姿が美しい)。この詩経衛風(衛の国の歌)の詩句にちなんで淇園(きえん)と号した儒者が、18世紀の日本に二人いた。ともに多芸多才、詩文書画に秀でていた。京都の鴻儒皆川淇園(1734~1807)と大和郡山の藩儒柳沢淇園(1704~1758)である。二人の顕彰は日露戦争後の興隆期に、同名別団体の「淇園会」がそれぞれ出版した『淇園名蹟』(1907)と『鴻儒皆川淇園』(1908)とによって始まった。

柳里恭の名で知られる柳沢淇園は大和郡山市発志(はっし)禅院の郡山藩家臣団墓地に眠る。その墓石は建立当時のものではなく、新しく建て替えられている。皆川淇園の墓石は上京区寺町通今出川上ル、阿弥陀寺の皆川家一族の墓地に、今も当初の姿をかろうじてとどめている。その正面には淇園の門人であった宮津藩主松平宗充(むねただ)の篆字で「処士皆川弘道先生碣(いしぶみ)」と刻まれている。「処士」とは官(幕府や藩)に仕えない浪人を意味する。弘道は諡号(しごう)。淇園の父、皆川春洞(諱(いみな)は成慶、諡(おくりな)は拡元、1700~1779)は東福門院御殿医であったが、その墓石にも「処士皆川拡元先生碣」とある。儒学を修め詩文書画を善くし、長男淇園(名は愿(げん)、字は伯恭、通称文蔵)、次男成章(なりあきら、字は仲達)、三男成均(字は叔則)に幅広い英才教育を施した。成章は富士谷家の養子となり、国学者として名を成した。

淇園は生涯、市井の「処士」を貫き、25歳から没年まで49年間、私塾で儒教の古典教育を行い、数多くの注釈書を著した。その優れた漢文指導法により、門人は全国から3000人に及んだと言われる。その門人名簿に記された1313名の四割を公家、武家、僧侶が占めるが、医師の子弟も無視できない。主著『名疇(めいちゅう)』(天明4年1784序)は、みずから「開物学」と名付けた独自の言語学的解釈理論に基づいて、孝悌忠信恕敬恭倹など儒教道徳の基本概念60を詳説する。

淇園の墓石の真向かいには巨大な御影石の「皆川弘道先生墓表」(題字、上掲写真)が立つ。文化5年(1808)11月に「孝子允(いん)」が建てたこの墓表は風化のため、題字以外、読み取るのがなかなか困難である。撰文は門人の「前平戸城主壱岐守源清」すなわち平戸藩主松浦静山、本文と題字の書は同じく門人の「膳所城主下総守藤原康禎」すなわち膳所藩主本多康禎である。今日では松浦静山が作らせた拓本(松浦史料博物館所蔵)が建立当時の文字を伝える。淇園が年中座っていた書斎の席をある日、主人不在中にお手伝いが掃除のためまくり上げると床が腐っていた、という猛勉強の逸話はこの撰文中の白眉である。淇園の没する前年の1806年、中立売室町西に落成した私塾弘道館は静山の財政的支援が大きかった。膳所藩校遵義(じゅんぎ)堂は弘道館にならって1808年に創設された。

儒者、教育者、詩画壇の大御所、独立不羈の自由人として生きた「処士」淇園の魅力は尽きない。

 

『平成のちゃかぽんー有斐斎弘道館 茶の湯歳時記ー』(淡交社、2017)より

松田 清

神田外語大学日本研究所客員教授 京都大学名誉教授 著書に『京の学塾 山本読書室の世界』(京都新聞出版センター 2019)『洋学の書誌的研究』(臨川書店 1998) 共著に『訓読豊後国志』(思文閣出版 2018)『明石博高と島津源蔵―京の近代科学技術教育の先駆者たち―』(国際日本文化研究センター 2021)など 有斐斎弘道館理事