京都の未来を考えるうえで有斐斎弘道館は貴重な場所―同志社女子大学名誉教授・廣瀬千紗子氏

有斐斎弘道館との出合い

2010年に、京都国立博物館・日本近世文学会が主催した展示会「特別展観・没後200年記念 上田秋成」が京都国立博物館で行われました。ちょうどその頃、私が在籍していた同志社女子大学の日本語日本文学科が、学部名を「表象文化学部」に変え、京田辺キャンパスから今出川に移転したので、学会の秋成展に協力する形で、大学の公開講座〈今出川講座〉の「上田秋成没後200年祭記念連続講演会―いま、京都で秋成を読む―四神相応の地・京都と文学」を2週連続で行いました。秋成は60歳で大坂から京都に移住し、終焉の地は御所のすぐ近くです。

そんなときです。上田秋成と同時代を生きた皆川淇園の塾の地が、マンション建設の寸前で、取り壊しの危機を逃れたと知り、強く心を動かされました。今までは敗退の例ばかりだったからです。いよいよ保存に向けて動き出すというので、私も関わるようになりました。まだ今のようにきれいに整備されておらず、庭の草は生い茂っていました。それを思うと、本当によくここまで来たと思います。

文人をつなぐ私塾という存在

江戸時代はおおまかに前半、後半に分けると、前半は京都のほうが優位でしたが、「文運東漸(ぶんうんとうぜん)」と言って、1750年代前後、江戸時代の中期ぐらいから、文運が西から東にだんだん移っていって、江戸が中心になります。しかし、公家や上層町人がたしなんでいた学問、芸術、だいたい江戸時代以前から受け継がれてきた伝統的な学芸がそうですが、そういうものは依然として京都に主導権がありました。私塾がたくさんあり、堀川にあった伊藤仁斎の古義堂が有名です。皆川淇園が開いた弘道館もそれらひとつで、18世紀後半、この狭い京都の町に、全国各地から多くの若者が学びに来ていました。若き日の本居宣長も伊勢松坂から京都に留学し、実によく学び、よく遊びました。夕方までは真面目に勉強しますが、終わって木屋町を散策すると気もそぞろ。四条河原で見世物や芝居を見ていたと、日記に書いています。

くしくも淇園、秋成、漢詩人で僧侶の六如(りくにょ)は同じ1734年の生まれです。『近世畸人伝』(きんせいきじんでん)という、個性豊かな変わり者たちのことを書いた書物があります。これを書いた伴蒿蹊(ばんこうけい)と、画家の円山応挙はひとつ年上の同じ世代。淇園は応挙に絵を習っています。

「門人たちが鎖状につながる」という言い方をするのですが、上田秋成を中心とする友達、皆川淇園を中心とする友達。中心人物があちこちに居て、それぞれが詩や歌、絵や書、茶の湯や煎茶を通じて、顔の見える人数で集まり、メンバーが少しずつ重なりながら、接点をもつ。そういう、ゆるやかなつながりを作っていました。このように、広い意味で文事に携わる人が文人です。なかにはまだ有名になる前で、のちに大成する若者もいます。日夜、懸命に学び、大いに遊ぶ。住所も近くて、しょっちゅう会えたのでしょう。

あるいは、現代に例えるならメールのやりとりをするように、手紙を書くように、時には絵を添えて、詩や歌をおくりあっていた。旅立つ先輩をおくる歌、失意の友を励ます詩とかね。日常的な行き来そのものが、そのまま文学であるような時代が、まぎれもなくあったんだと思います。非常にクリエイティブな日常です。それは、通ずる相手がいたからで、今では少しハードルが高いようなことを、普通にやっていた。うらやましいことですよね。でも、最近の京都には、形を変えて、またそういう動きが出て来たようにも思います。

ハイブリッドを生む〝雑学〟

私はもともと日本文学をやるつもりで大学に入りましたが、指導教授との出会いがあって、文学と芸能史を学びました。能・狂言・文楽(人形浄瑠璃)・歌舞伎などを見るようになったのは学生になってからです。文学・芸能・美術・工芸など、近代にはジャンルが分かれてしまいましたが、江戸時代にはあまり縦割り意識はなく、相互乗り入れや、一人で多趣味ということも多かった。今でも、芸名やペンネーム、茶や花、俳句や短歌、画家や書家などの「雅号」がありますね。その特技によって、本名とは別の名を名乗るのですが、隠居名というのもそうで、社会的身分など、現世での制約をこえることができます。いわば、もうひとりの自分ですね。

一人の人間にはさまざまな側面があり、それぞれの場の自分がいる。江戸時代には、一人であまりにも多くの号を名乗りすぎて、自分でも覚えきれるか、という人もいます。多様性の極みですが、もう雑学です。きっと、好奇心が抑えられなかったのでしょう。しかし、 異分野からの刺激はエキサイティングで、あらたな発見があります。ここが雑学の強みで、思わぬハイブリッドを生むわけです。

このように考えると、皆川淇園が自分の学問のほかに書画会を主催していたことが注目されます。それは、1792年から1798年までの春秋、合計14回開かれた「新書画展観」です。円山の料亭、也阿弥に各地から文人が作品を持ち寄って、競いあいました。席画という、その場で描くライブあり、合作あり、宴会ありの賑やかなイベントで、淇園自身も書画が得意でした。ここでは、たくさんの出会いがあったことでしょう。

学びの空間・生きた遺跡

有斐斎弘道館はそういう江戸時代の空気を感じさせてくれる、生きた遺跡です。遺跡とは言え、今でも生きています。当時、京都に住んでいた文人の人名録、『平安人物志』には姓名、住所、号などが載っていますが、1782年版の淇園の住所は「中立売室町西」で、まさに現在の有斐斎弘道館のある場所に一致します。建物は、もう少し時代下がりますけれども、位置は間違いありません。つまりこの場所は、そのまま淇園の時代に直結しており、ここには膨大な時間が蓄積されています。

江戸文学にとって、皆川淇園たちが生きたこの時代が、一番いい時代だと思います。学芸が充実し、芝居の完成度が高く、出版も盛んです。奇人変人がいて、遊んでいても面白い。このあと、幕末に近くなると、政治的にもいろんな問題が起こってきて、だんだん窮屈になり、閉塞感がでてきます。江戸時代の京都のみならず、これからの京都を考えるうえで、有斐斎弘道館のような場所が残っているというのは貴重なことだと思います。それぞれ多様なバックボーンをもった人々が集まり、接点をもてる場所。人材育成ということも掲げていますが、人がつながり、自分を広げてゆく。伝統芸能も、今まで見たことがなかった人に、畳の上で体験してもらいたい。それには、お互いの顔がみえ、声が聞こえる、この大きさがちょうど良いのです。

この10年、非常に少ないスタッフでやって来られたのは奇跡に近い。だから良いのか悪いのかですよね。奇跡的に上手くいっている。助けてくれる人がいたり、タイミングがよかったりで、ひとつひとつの困難を乗り越えて来ましたが、10周年というのはこれから先どうしていくの?ということででもあります。持続可能な活動の形を考えないといけない。かくいう私も、在職中は大したことはできませんでしたが、定年退職したので、何ができるかなと考えているところです。

「もうちょっと知りたい」と思って次に進む。「どうして?」と思って理由を考える。有斐斎弘道館は、伝統文化を学ぶための仕掛けに満ちており、この空間に身を置くことが、すでに学びの一歩です。個人の承認欲求が肥大し、世の中のパラダイムが大きく変わろうとしている今こそ、淇園の時代から学ぶことは多いと思っています。

プロフィール〉同志社女子大学名誉教授 廣瀬千紗子氏

同志社女子大学名誉教授。長年、日本近世文学、日本芸能史の研究に携わり、有斐斎弘道館の保存活動がきっかけで創立された近世京都学会の発起人の一人でもある。公益財団法人有斐斎弘道館理事。京菓子展の審査員も務める。