糺河原勧進猿楽とは?

糺河原勧進猿楽図.png「寛正五年糺河原勧進猿楽図」(観世文庫所蔵)
 「勧進」とは、もともと、「人々を仏道に導くこと」を意味する言葉でしたが、やがて、社寺や仏像の建立・修理のために、人々から寄附を募ることを言うようになりました。「勧進猿楽」とは、「勧進」のために興行される能楽公演のことで、一度に多くの人々に芸能を見せ、入場料を集めることで、巨額のお金を集めたのです。さらに時代が下ると、勧進猿楽は宗教的意味合いを弱め、能役者にとっての一世一代の大規模公演という意義が強くなります。

 勧進猿楽は、洛中・洛外の様々な場所で行われました。その中でも有名なものが、ここ糺河原で行われた勧進猿楽であり、「糺河原勧進猿楽」は、永享5年(1433)と寛正5年(1464)に行われた2つが知られています。前者は、室町幕府六代将軍・足利義教の命によって、大和猿楽観世座の三世観世大夫・音阿弥(世阿弥の甥)が行ったものであり、後者は、八代将軍・足利義政の命により、音阿弥とその息子・観世又三郎政盛が行いました。

 とりわけ、寛正5年の4月5・7・10日の3日間に渡って行われた「糺河原勧進猿楽」に関しては、充実した史料が複数残されており、その様子を詳しく知ることができます。観世流宗家にも「糺河原勧進猿楽舞台桟敷図」という1枚の史料が伝えられており、掛け軸にされ、今日も大事に扱われています。ここには、冒頭に、糺河原勧進猿楽が、鞍馬寺の再興が目的であったこと、その中心的な役者が音阿弥、又三郎の親子であったことが記され、その左に、能舞台の構造、足利将軍の席や、大名・公家・僧侶たちの桟敷席の配置が図示されています。

 その下には演目が記されており、ここから、最後にアンコールとして演じられた能《名取老女(護法)》、《養老滝(養老)》を含むと、3日間にわたって能23番、狂言20番が上演されていたことが分かります。ここに見られる演目のほとんどが、現代の能楽でも演じられる人気曲であることがお分かり頂けると思います(そもそも、このように狂言の演目が記されて残されていること自体はじめてのことでした)。また、これは能舞台の図としても最も古いもので、現在とは異なり、橋掛りが舞台の後方に付いている点が注目されています。

《寛正五年糺河原勧進猿楽の演目》
 初日
  相生 みるまの長者、八嶋 猿引、三井寺 かくれ笠、邯鄲 はちたゝき、源氏供養 くわいちう、丹後物語 八幡のまへ、鵜飼

 二日
  鵜羽 鬚かいたて、敦盛 うさぎ、山姥 大か小か、春近 鬼のまめ、松風 いものし、自然居士 ちしやく、恋のおもに

 三日
  白楽天 三本柱、誓願寺 こよミ、箱王曾我 あさいな、二人静 はやかきざとう、四位少将 腹つゞミ、碪 なきこむ
  しきみ天狗 いるま川杜若 わかめ、放家僧

 御乞能 二番
  名取老女、養老滝

*大字=能の演目、小字=狂言の演目。ただし、「うさぎ」のみは役者名を意味する。
〔藝能史研究會編『田楽・猿楽』日本庶民文化史料集成 第2巻(三一書房、1974年)より)


 糺河原は、賀茂川と高野川が合流する地点の河原です。中世において、そこは交通の要所であるとともに、所有者のいない、いわゆる「無縁」の場であり、様々な人々の交流する広場でした。それゆえ、そこは、まさに勧進猿楽にふさわしい場でした。ほかにも勧進猿楽は、川と川が合流する河原で行われる例は多いですが、様々な河原のなかでも、古来、京都において最も重要な神社の一つである下鴨神社の神域に近い糺河原は、きわめて清浄な場であったのでしょう。また、当時、将軍家の邸宅「花の御所」は糺河原に近い位置にありました。

 そもそも、足利将軍の命による勧進興行は田楽が主流でしたが、永享5年の糺河原勧進猿楽を境に、猿楽は田楽より優位になり、それ以降、田楽は衰退してゆきます。この時、音阿弥は36歳でしたが、奇しくも寛正5年の時も、音阿弥の子・又三郎の年齢は36歳でした。これは、寛正5年の勧進猿楽が、将軍・諸大名たちの前で、又三郎を音阿弥の継承者として披露するためのパフォーマンスであったことによると考えられています。糺河原は、観世流隆盛の出発点になった、非常に重要な場であったのです。




「糺勧進猿楽」再興に向けて

以下は、昨年の6月、糺勧進猿楽再興に向けて、観世清和氏、松岡心平氏、新木直人氏、濱崎加奈子氏によって行われた記者会見の記事です。

(京都新聞、平成26年6月14日)
tadasu_news1.pdftadasu_news1.pdf
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(京都新聞、平成26年9月29日)
tadasu_news2.pdf
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