幅広い学問をカバーする“鴻儒”皆川淇園。学問も遊びも一流の18世紀スタイル―京都大学名誉教授・松田清氏

東日本大震災を受けて、原点を見直したい

有斐斎弘道館の活動に関わるようになった理由は二つあります。ちょうど10年前まで5年間、全国の博物館の学芸員と大学の研究職、合わせて400人ほどで組織した「江戸のモノづくり」という研究組織で活動をしていました。ここで言う〝モノづくり〟というのは、物質や機械だけでなくて、文化も含めた〝モノ〟。これらを対象にしている理科系・文科系の研究者、そしていろいろな〝モノ〟を実際に扱ってらっしゃる美術館や博物館の学芸員さんと一緒に、全国的な調査、シンポジウムを行っていたんです。その活動を通して知り合った国立科学博物館の鈴木一義さんに濱崎さんを紹介していただきました。濱崎さんが有斐斎弘道館のことを鈴木さんに相談されていたそうなんです。

もう一つは、2011年に東北大震災がありまして、私にとって、もちろん全国の皆さんにとっても大変ショックなことだったのですが、津波に加え、原発という高度な近代科学技術の成果が、自然の力で大変な災害の元凶になってしまいました。大げさに言えば近代的なるもの、科学技術というものの原点を、つまり近世からですね、もう一回見直す必要があるのではないかと、衝撃をうけました。「江戸のモノづくり」という、日本の近代化以前の、江戸時代の文化・文明・科学技術のことをやっていて、そこに大震災がきたわけです。

近世の日本文化を見直すとすると、京都なしでは考えられません。私自身は皆川淇園のパトロンであった平戸藩の藩主・松浦静山の研究を今まで30年(その当時までで20年)やってきております。皆川淇園の学問から、近世文化・科学技術を総合的に見直すということを、京都でできないかなと思うようになりました。そのタイミングで鈴木さんからのご紹介があって、お話をお受けしました。

近世京都学会を発足し、車の両輪として

有斐斎弘道館を保存するにはどうしたらいいのかということについて、濱崎さんと太田さん、そして同志社女子大学の廣瀬千紗子さんと4人で話し合い、試行錯誤しました。保存というけれど、では、どのように組織を作ったらいいか、その議論を随分しましたね。結論としては、淇園の勉強会を何度かして、近世京都学会という学会を発足させました。文科系・理科系いろいろな分野の方が集まった80名くらいの学会です。保存のための組織とは別に、車の両輪のような形で、近世京都学会を運営しています。

皆川淇園がどういう暮らしをしていたかについては、日記がないものですから、書簡や著作を通して交友関係などから彼の活動を知るしかありません。淇園の親友といえば、第一に大坂の町人学者木村蒹葭堂をあげねばなりません。淇園と蒹葭堂と松浦静山、三人の親密な交友は『蒹葭堂日記』からうかがわれます。淇園は松浦静山が参勤交代で大坂に来るたびに、大坂まで迎えに行き、伏見まで淀川を舟で一緒に上りました。静山にあてた淇園の書簡数十通からは二人の学問交流の様子がよく分かります。私は、淇園はよく学び、よく遊んだ人だと思います。ただし遊びと言っても、享楽、贅沢三昧という意味ではありません。著作、詩作や書画、評論もやりますし、人に頼まれて、序文を書いたりもしています。儒学を基本としながらも、幅広い文芸活動、むしろ文化活動をやった人です。

阿弥陀寺にある淇園の墓碑には、淇園の伝記的なことをまとめた、非常に長い松浦静山の碑文が彫られています。実物はほとんど判読できないのですが、完成したときにとった拓本が、平戸の松浦史料博物館に保存されています。それを最初、淇園の勉強会をやっていたころに、全文みんなで読みましたが、門弟三千余人にのぼったとあります。彼の暮らしぶりも書いてあります。どんなに忙しくても、帰宅してから勉強したと。夜は書斎に座り込んで本ばかリ読んでいたこと。昼は講義の合間に、身分を問わず来客をむかえ、幅広い交際をしていたこと。「文雅の交わり」といいますけど、友人たちと詩文をやりとりし、お茶をやったりしています。

藩校の参考にもされる自由な学風

淇園の学問というのは、儒教の古典を分かりやすくした、いわゆる注釈本を作るというものでした。注釈本には、彼の研究成果が盛り込まれています。その特徴は、古代中国の言葉を今風にいえば、言語学的に分析して、言葉の本来の意味、発想を文章の中から取り出すという彼独自の方法を用いたこと。彼なりの厳密な方法をあてはめながら、分かりやすく一般にも読んでもらえるような注釈本を出版しました。しかしこれはあまり売れなかったそうです。

彼がもう一つ残した業績は民間の塾、私塾です。彼の塾の漢文教育が非常に評判を呼びました。お寺の子弟やお医者さんの子弟が、儒教だけではなく、漢作文を勉強しにきました。そのための文法教科書も彼が編纂して出版しています。広い意味での漢学教育のモデルだったわけです。18世紀の中頃から、大きな藩は正式に藩校を開き、学者を招いて藩士の教育をしていました。淇園はその藩校に勤めることはしませんでした。藩に仕える誘いを断って、町人出身の学者として、独立した私塾で自由な学問をやっていたのですね。

ところが藩校を作るというときに、淇園の塾をモデルにした藩があります。膳所藩の遵義堂です。淇園の学問を藩主が尊敬して、あの学者の学風で我が藩の侍の子弟たちを教えようということで学校を作ったのです。それだけ影響力があったのでしょう。膳所藩は大きな藩ではありませんでしたが、ユニークな人材を出すことができました。

明治40年、淇園の功績を振り返る

幅広いジャンルをカバーしているだけに誤解されているのでは、と思うのですが、たしかに淇園は芸達者な学者。だけどすべてが一流です。淇園は、お父さんが教養のある商人で、学者肌。学問を大事にする家風で育ちました。

淇園は儒学だけではなく、さまざまな教養を身に付けていましたから、いろいろな文章を頼まれます。庭を作ったから、書斎を建てたから、本を出すから、珍しいものが見つかったから、と言った具合です。幅広く中国の古典を読んでいますから、博物学的な解説も書くことができました。もちろん絵画と詩も一流です。書画会を組織して、東山で書画会を何度も主催しています。

淇園のことは幕末から明治にかけて忘れ去られていたのですが、明治40年ごろに最初の本格的な顕彰活動が行われました。調査研究に当たったのは大阪の新聞記者西村天囚、京都帝国大学教授高瀬武次郎(中国哲学)や歴史学者の川島元次郎です。京都府や地元の亀岡町の呼びかけで淇園会という顕彰会が作られ、淇園の伝記を出版しました。そのタイトルが「鴻儒 皆川淇園」。鴻儒は大学者という意味です。鴻(おおとり)のように学問全体を覆い、悠々と空を飛ぶイメージです。この本が明治41年に出ました。

明治以降、ヨーロッパに学べ、近代化だということで、西洋の学問に追いつけ追い越せと理科系、文科系を問わずやってきて、江戸時代の儒学、京都の民間の儒者などは忘れ去られていたのです。ところが、明治40年ごろ、京坂の自由で幅広い学風にスポットライトがあたった。江戸時代の学問文化をもう一回見直そうという、そういう時代の始まりですね。

御所の周辺にあったアカデミックな空気

京都の学者、文化人、職人たちが御所の近くにいたわけです。淇園と同時代の大博物学者小野蘭山も御所の周りで40年間、塾を開いていました。もちろん各藩の藩邸もありました。明治に入っても文人の富岡鉄斎や医者が住んでいて、この辺にはそういう雰囲気があったのですが、どんどんなくなって今や鉄斎旧宅とこの場所だけになってしまいました。御所をとりまく文化人ゆかりの場所ということでは、非常に貴重な空間ですよね。この建物には幕末から明治初期のものがあり、ほぼ明治期の建物ですけど、敷地が少し淇園の弘道館跡と重なっているということで、旧跡として残す価値があると思います。

いろいろな京都の文化が実際にここで営まれた。今後は現代的な観点から、それを広げていくということができればいいですね。理想かもしれませんけれど、保存ということは、活用していってこそ、つなげていってこその保存ですから。保存と活用を通して、淇園の18世紀スタイルを学びつつ、それが自然と身について広く伝わるというようなことが、できればいいと思います。

淇園は晩年、塾に講堂を建てました。とはいえ、講堂を建てるお金がなくて、平戸の殿様や宮津の殿様たちの支援を受けてようやく講堂を建てることができたのですが、講堂ができて2年後に淇園は亡くなりました。なぜその話をするかというと、ここに講堂が欲しいなと思うんです。やっぱり淇園がここを拠点に全国にネットワークをもっていたように、既存の大学施設とは違った、淇園の学風を継承する象徴的スペース。そういうものがぜひここにあってほしいと思います。

付記 インタビューでは触れられませんでしたが、明治28年ごろ、淇園の弘道館旧跡には旧土佐藩士、陸軍の退役軍人で画筆に親しんだ長屋重名(ながや・しげな、号海田、1844-1915)が住んでいました。この年11月、同じく旧土佐藩士で画家の河田小龍は長屋の求めで書画を描いたところ、某日招かれて長屋の居宅を訪れました。その日録に曰く。

京に田舎あり、其の庭中の佳色は賞すべく、丹楓が十余株あって皆紅に染まり、佳麗なること雨の如く甚だ妙趣がある。長屋高陽山人を信じ、多くの素描を蒐集した、是を観たることありやと、大箱を持ち出して見せたが、其の稿は実に三百余葉あった。予は一々之を縦覧し尽くし、日没に及んで辞去した。(別府江邨著『画人河田小龍』1966刊、236頁)

淇園旧宅に同時代江戸で活躍した南画家中山高陽(1717-1780)の画稿300余枚が収集されていたとは。収集した長屋はみずから「古淇園」と号したといいます。それを「縦覧し尽く」した小龍は幕末、藩命により漂流民中浜万次郎の絵入り聞書『漂巽紀略』(1852)を著し、明治22年には京都府に雇用され、翌年竣工した琵琶湖疎水の図誌を描いたことで知られます。

明治28年、淇園や高陽山人を想いながら二人が眺めた庭は、今も立派に保存されています。

プロフィール>京都大学名誉教授・松田清氏  

日本洋学史、日欧知識交流史、書誌学、近世京都を研究。近世京都学会代表幹事(2011年~)有斐斎弘道館では「淇園を読む」という講座を2016年5月から開催。公益財団法人有斐斎弘道館理事。