有斐斎弘道館は時間の経過がわかる場所。だから、和蝋燭の灯りで落語をしたいと思いました-落語家・桂吉坊氏

お客さんと自分の風景を合わせる表現力

落語会をしていた大阪で、大倉源次郎先生に濱崎さんをご紹介いただきました。今から12年ほど前ですから、濱崎さんが弘道館の活動をする前ですね。

その後、大倉源次郎先生が有斐斎弘道館で講座をされた際に、僕も一緒に伺いました。そのときに、落語をするんだったら燭台でやりたいですねという話をしたと思います。

どうして「燭台でやりたい」と思ったのか。それは有斐斎弘道館が「時間の経過がわかる場所」だと感じたことが、理由の一つです。例えばお茶事であれば、朝に集まって、だんだんだんだん日が昇り、日が沈む。庭を見ることでそれがわかります。そういう時間の経過を感じるには、人工的な光ではなくて、燭台で蝋燭の灯りがいい、そう思いました。

その後、毎回テーマに沿った落語とトークを、和ろうそくを灯した空間で行う「吉坊ゆらり咄」を2014年から始めました(以降、年に2回のペースで開催。初回は、京都大学教授の金光桂子さんと、2回目以降は木の下歌舞伎の木ノ下裕一さんと。次回は今年9月に開催予定)。

会場は、蝋燭を4本立てた有斐斎弘道館のお座敷。それだけでは、演劇や舞台としては暗い。お客さんからは顔はほとんど見えてないと思います。落語は、顔を見て楽しんでもらえるようになっていますが、ある意味テレビよりはラジオのほうが得意な芸風で、耳で聞くだけでも十分楽しめます。会場が暗ければ、お客さんは話により集中して、お客さんが想像する世界の割合が広くなります。顔が見えないことは全然不利なことではありません。でも、ものすごく静かで、「すべってるんかな」って思うときもありますね(笑)

僕は、伝わるということが好きなんす。笑ってもらうことも伝わるということですよね。「面白い」ことを僕が言って、「面白い」と反応してもらえる、そのやりとりが好きです。例えば明るい部屋で、僕が話に合わせて、手で何かを撫でる動作をしたとします。それは見えますから、わかりやすく伝わります。ですが、暗くて見えないところでも同じようにやります。それがお客さんに伝わるんだろうか。言葉にそれだけの表現力があるんだろうか。どうやったらお客さんと自分が思っている風景を合わせられるか。それはどんな会場で落語をしていてもありますけど、暗いところでは特にそれを感じます。

どんな人にも向けられる優しいまなざし

落語には「いいことを聞いた」と思わせないけれど、印象に残る台詞を何気なく言わせていることがあります。

「天神山」という演目には、源助という変わり者が出てきます。みんなが花見に行くのが面白くないから、〝墓見〟に行くって言って、たまたま見つけた墓の前で、お墓にしゃべりかけながらお酒を飲むという話です。そのなかで、源助が登場する前に、名前も出てこない長屋の住人が話している場面があります。一人が、きれいな着物を着て花見に行く人をうらやましいなとか言うと、もう一人が、「この世は夢の浮世言うてな。あの人らは前の世で、ええ事してきたさかい今、ええ夢見てはるてなもんや」って言うんです。どうしてこの人たちに、そんなことを言わせるんだろうと。どうしてここにこんな言葉を入れようと先人は思ったのだろうと、考えさせられます。

落語って優しいんですよ。自分の師匠が「天神山」をしている姿を見ていて、お墓に対して話しかける源助が、みんなとても優しいまなざしなんです。普段なら、のけものにされているような物とか人であっても、何に対しても同じ目線で見る。幽霊が出てきても、全部受け入れます。いろいろなものを知ると、いろいろなものがあるということがわかります。これがいいと言われても、それしか見てなかったら面白くないと思うんですよ。変わった人がいてもいいじゃないか。悪い人はダメですけど。ただ、悪い人が本当に悪い人なのかというのは、また見方が変わったら変わると思うんですよね。昔はそういうものだったのかなと。僕は落語のこういうところをわかってほしいと思っています。

落語をはじめ、娯楽とか学び、文化というのは、具体的に何かがの勉強になるというようなものではないと思います。お腹いっぱいにはならないかもしれないけれど、美味しくご飯が食べられるようになるかもしれない、そういう存在なのではないでしょうか。落語を聞いて、笑って、明日仕事に行く足取りが少しでも軽くなればいい。そういうものだと思います。

「教わる」ということは、「信じる」こと

噺家は、この人の弟子になりたいと思って、師匠を選んで入門します。自分で親を選ぶようなものです。自分で選んだのだから反抗のしようがありません。

特に内弟子で一緒に住んだりすると、それはそれは大変ですよ。でも僕は内弟子3年目の時に痛烈に感じたことがあって、それがなければ続けられなかったですね

僕の師匠は桂吉朝です。ですから僕にとって桂米朝は、師匠の師匠なので大師匠(おおししょう)です。その大師匠が喜寿記念の京都南座の落語会で「らくだ」をやりはったんです。まあそれがすごくて内弟子の僕は「こんなすごい師匠のところにいるのか」と。そして、我が師匠が大師匠を見る目。「俺は桂米朝の弟子」と言う目。僕らはその時眼中に入ってません、全くもって一弟子の目。ものすご師匠のことが好きなんやな、僕が一番好きな師匠が一番好きな人のところに置いてもらってるんやと思うと、心持ちが変わりました。是れに気づかなかったら、僕は内弟子は務まらなかったと思います。師弟の関係というのはそう言うことやと僕は思います。

今はインターネットで何でも調べられる。教えてもらわなくても知ることはできる。それは損だなと思います。いざものを教えてもらうとなると、その人を信じないと無理なんです。

イエスマンになることではないですけど、教わっているときは完全にその人コピーすることから始めます。落語でも初めの何年かはそういうお稽古がありまして、一言一句、息を継ぐところも決められて、師匠に教わった通りにやる。そのときは、お客さんもちゃんと聞いてくれるし、うける。ところが必ず、もう少ししてからうけなくなるんです。それは間(ま)が崩れていくから。自分の間で話出した途端にうけなくなる。それで一回最初の通りに戻す。すると、うける。何が違うんだろうってやっていくうちに、明らかに最初習ったのとちょっと違うけれども、それでも受けるようになってくるんです。結果的にそこにならなければいけない。そこまでが教わるということなんです。

地道な努力を見守る仕組みが、文化に体力をつける

落語を含めて文化が、何をエネルギーとして生きていくのか。僕はやっぱり昨今の古典に対するほったらかされ方が問題だと思います。地道にコツコツやるというのはすごく難しいんです。修業がしにくい。わき目をふらずにネタの修業だけするってことはありません。バイトをしてる人もいます。その時点では生活できないわけですから。でも修行の時間は必要なんです。僕らの修業形態で有難かったのは、例えば3年という修業の間は守ってくれて、全部師匠がかぶってくれる。そういう見守るという仕組みが今はありません。すると、文化は体力なくなって倒れてしまう。そうなって初めて、好きだったという人が残念だと声をあげてくれるわけですけど、その前に助けてほしいんです。

有斐斎弘道館も同じです。ここも〝珍しい〟空間になってしまいました。僕はこういう空間も残っていてほしいし、できることなら増えてほしいけれど、今の社会では難しいかもしれないとも感じています。ですが、僕もここで落語を続けたい。どこまで続けられるか、挑戦だと思います。文化に理解があって、楽しめる人なら、ここで落語を聞いたりする時間を豊かだなと共感してもらえるでしょう。こういう空間があることを、みんなに知ってほしい。ここを好きな人がもっと増えて、守っていって欲しいと願っています。

プロフィル〉落語家 桂吉坊氏

1981年、兵庫県西宮市生まれ。1999年(平成11年)年、桂吉朝に入門。 同年3月「東の旅〜煮売屋」で初舞台。2000~2003年、桂米朝のもとで内弟子修業。 同年3月「東の旅〜煮売屋」で初舞台。2000~2003年、桂米朝のもとで内弟子修業。 以後、古典落語を中心に舞台を重ねる。2011年「咲くやこの花賞」大衆芸能部門、2019年「花形演芸大賞金賞」受賞。有斐斎弘道館では2014年から和蝋燭の明かりで落語を行う「吉坊ゆらり咄」を年に2回のペースで開催。2019年7月7日には、有斐斎弘道館再興10周年「淇園をきく」に出演し皆川淇園一代記を語る。

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