和菓子の「かたち」

はじめに

「和菓子」という言葉は、明治時代西洋菓子の流入による、それとの対比により生まれた。日本における他の多くの文化やモノと同様、和菓子もおおよそ1700年あまりの対外交流史、そのオープンの新しい物を取り入れる時代とクローズして日本的に熟成する時代の繰り返しの中で形成された。

その歴史を、大きく分類すると6区分に分けられる。

「祈りの時代」
第1期として国神と天津神の時代 アニミズムを基底とする信仰の上に半島から、道教的なまた儒学的な考え方がゆるやかに入ってきた6世紀ぐらいまで。

「唐菓子の時代」
第2期は600年の遣隋使の派遣から894年の遣唐使の停止までの300年間

「点心の時代」
第3期は、宋、元の禅宗文化を基にする平安後期から室町前期に至る

「南蛮菓子の時代」
第4期は1543年の鉄砲伝来から1639年鎖国までのポルトガルを対象とする

「茶道菓子の時代」
第5期として北山、東山、桃山、慶長の各文化の流れのなかで形成される

「和菓子の時代」
第6期は、西洋と対峙し共存する現在平成に至る「和菓子の時代」である。

本稿においてその歴史区分に沿いながら『かたち』という視点のもとで「日本の菓子」に考察をくわえる。

祈りの菓子

菓子という概念は、いついかように成立したものであろうか。

農耕以前 ヒトはその非効率な栄養摂取法で或る狩猟、採集に明け暮れていた 主食であるシシやシカなど追いかける途中での森の中での休憩、森の緑の中の補色 赤や朱色の木の実、果実はヒトの目を惹き付けた事であろう 菓子の誕生である。 その「甘み」はヒトにやすらぎをもたらし、その「形」「色」は意味と価値を与えた。菓子の概念が成立した瞬間である。

 本邦における田島間守の『橘』、西洋におけるアダムとイブの『林檎』かたや不老長寿の「時非香果」かたや官能の「禁断の果実」これが菓子の概念を形成する因子である 「橘」は後に源平藤橘四姓のひとつとなり、垂仁天皇の命により「橘」を持ち帰った田島間守は菓祖神となり京都吉田神社の菓祖社、佐賀伊万里の香橘社、和歌山の橘本社、但馬豊岡の中嶋社現在もこの四社の主神である。

「橘」は内裏紫宸殿の前栽として右近の位置にあり平安中期までは左近の梅とその後は左近の桜と長くコンビを組む 三月三日の雛人形中段にもその姿を残している。のちに橘の文様は日本の紋章の中でも象徴的なものとなり江戸中期以降おおくの橘屋という屋号の菓子屋が登場してくるそしてその暖簾には橘の文様が染め抜かれた三大祭りのひとつ京都の祇園祭にも象徴的ないのりの菓子が登場する「山桃」である。西日本の夏に催行される祇園祭りは疫神祭でありおもに天然痘に対する鎮めである。

七月十二日長刀鉾の稚児が松原中之町の塚にまいる神事が最近まであった。古ぼけた町家の中庭で 大きな茶瓶で大量に立てた茶をみなで喫するのである 室町中期後期の「一服一銭」の形態を今に残しているその茶のまえに配られる菓子が山桃を模した茶席菓子である 元は山桃其の物であろう 名古屋の西部近郊の町 津島にも信長の時代から有名な祇園祭りがある津島天皇祭この津島神社の門前の茶屋に名物の『あかだ』という菓子が今も多くの参拝客に買い求められている これも夏の祇園祭であるから痘瘡に対抗するためこの『あかだ』も空海が山桃を病気平癒のために民に配ったという伝承をもつ 山桃の形状はあかいぶつぶつである これは天然痘患者の顔によく似ている 毒を以て毒を制するの喩えのとおり病気平癒の願いが表象化されたと考えてよいであろう 中華菓子の代表的な意匠に桃がある(餃子や饅頭によく見られる)道教感の支配する世界においては桃は『西王母』の仙菓として万能薬である 中国ではかって家々の門戸に赤い紙札が貼られていたこれは桃板である桃のもつ神仙思想は 本邦にも移入され紀記にも重要な場面で登場するイザナギノミコトが黄泉の国から逃げ帰るシーン追っ手の黄泉の国の鬼たちを退散さすものは桃の実である ただ桃自体が日本に渡来するのは奈良朝と推定されるので桃の思想のみが先行し我が国の在来種としての山桃との混同が生じたとも考えられる この移入された道教的な考え方の代表が五節句 五節会であろう特にひな祭りでは『引千切(ひちぎり)』という特殊な形状の菓子を生み出す。

また、重五、端午の節句における『粽』中国における「蘇民将来の子孫也」の伝説により先程の京都の祇園祭りでは 山鉾ごとに『粽』が配られ各町家ではそれを門前に飾り示すことにおいて盛夏のころ疫病から逃れようとする祈りが込められている。笹や茅のもつ抗菌性をしらせる為という化学的根拠も併せ持ちながら『粽』の形はかつては集落ごとに様々でありそれぞれのコミュニテイのシンボルマークとも考える事が出来る。現在神奈川県大磯で五月五日に催行される「国府祭(こうのまち)」相模国の一宮から六宮までの神々が神輿に担がれ、その名もずばり神揃山に集まる。

これは、古代律令制度の中で新任の国司がその国中の神々に詣でたものが祭りとして継承されたものであろう。この祭りの六社の神饌である『粽』はまさに六社六様である。また、『粽』はその束ねた形状にも様々なかたちを示す。飾り粽として武家の装飾となり、神前の飾りとして様々に束ねられそれぞれに意味ずけされるに至った。『粽』の中身もいくつかの形を示す円錐型が基本となり例えば静岡でいまも作られている朝日奈粽などは 赤白二色の生地を紡錘状に練り上げたような形に仕上げる。ここでその材料についてであるが、ほぼ全て米の粉である。

『シトギ』という言葉がある今から三十年程前まで琉球から東北地方までありとあらゆる集落においてそれぞれの産土神に捧げられた物であったのだが時代の変化とそれに伴う祈りのかたちの変容によりすがたを急激に消してしまった。米を磨ぎ一晩水に漬け翌日よく水を切って臼で搗き砕き丸めた後にいろいろな形に仕上げた物である平安時代はじめの『延喜式』には「志登伎」とあり『倭名類聚鈔』には餅の部に「之度支祭餅也」とある。現在でも離島や山地の僻村にいくつかその姿をみることができる。2006年、赤石山脈の下栗村の「霜月祭」に参加した時丸二日つずく祭りの最後に直会がありそのときもらったおさがりが『シトギ』であったその形は丸餅に小さい小指の頭程の小餅を鏡餅の様に載せた物であった。そのにぶい白墨とも言えるようなその色彩は餅ではなかった。実は滋賀県にはこの『シトギ』が次章で述べる『唐菓子』と習合としたものなどがおおく見る事が出来る。

唐菓子

 主に奈良時代、遣唐使によって伝えられた『唐菓子』は訓よみされ『からくだもの』と呼ばれた。これらは唐土にあるときは麦粉をこねて捻ったり餃子のような形にしたり様々な形状にして油にて揚げたものである。前章最後に述べた滋賀県の赤いこんにゃくで有名な永源寺にある黄和田集落の日枝神社に伝わる「山の神講」という神事にまさに『唐菓子』というべき14種の形状の進貢が調進される。

これらはすべて米粉を材料としている これが 黄和田敬宮の「ちん作り」と呼ばれる敬とは ケで「御食」食の神であり ちんはかちん 女房言葉で餅の事をさし関西とくに京、近江では日常のケのおやつ、菓子をちんと呼び菓子は神に捧げるものという認識が最近まであった。正月、村の若者が集まり『シトギ』の要領で団子をつくり1ひよどり 2はしずな 3かめ 4いのしし 5ぶと 6志なの犬 7さる 8うさぎ 9うす 10むすび 11びわの葉 12きくざ 13おこぜ 14子犬 比較的具象にそのものの形を表している 本来の唐菓子にもそういう傾向がみられる例えば八種唐菓子(比較的初期の段階で移入やくさのからくだもの)の梅枝や、桃枝、これは果実のついた枝とする説が多い。

蝎餬は『倭名抄巻十六』に蝎虫の形をした煎麺だと記されている。蝎はすくもむしできむしともいう細い円柱形の二寸ほどの虫であるまた忝臍(てんせい)そのかたちは、臍(ほぞ)ににている 団喜は聖天すなわち歓喜天に捧げる団子である団は丸いものを意味し子も茄子や梨子などのように丸いものを表している 後続として移入された唐菓子のなかでもフトは下鴨神社,北野神社、春日大社などの大社の神饌にその姿を見る事が出来る 餃子に似た形状である このフトはその音読みからか伏兎となり民間信仰のなかでは兎の形状となっている場合がおおい上賀茂神社の神饌にもうさぎとなったフトがある下鴨神社の葵祭の神饌には餃子姿のフトがその一献めの高杯にのる。

ちなみに葵祭は 欽明朝の五年(545年)にはじまり後のどの時代も「まつり」といえばこの祭りのことというようになる五月の悪月の邪気を払うこのまつりの神饌の一献目フトやマガリの唐菓子であるがその配合は麦粉7:米粉3である完全に米粉の日本的なものになる過渡期的な姿をのこしているのかもしれない。二献目は鯛などの生饌が続き 三献目は粔籹や豆粉で作った州浜である。日本人はこの頃から外国からの移入のものをもてはやし一献目に重用して使い〆は御茶漬けのような感性なのであろうか最後に日本発祥的な菓子を供えている。象徴的でおもしろいこの神饌は下鴨神社の御本殿のとなりの大炊殿において見る事ができる。

索餅は麦縄ともいう『倭名抄』に「形に随つて之を名く」とあるようは素麺のことであり七夕の供物として大切なものである その姿が糸に似ていることからであるとか諸説様々あるこれから派生したと考えられているものが『しん粉』であるしん粉餅、しん粉団子ともいう京都愛宕山の参道の入り口の茶店平野屋には名物としての『志んこ』があり肉桂、抹茶、白砂糖の三色できな粉と黒砂糖をまぶす 同じく京都の清水寺にも名勝地にちなむ『白糸の餅』がある。

清水寺は観世音菩薩を御本尊とするがその結縁日である四万六千日これは旧暦の七月十日にあたるが白と黄色の長くて左捻りの『しん粉』を販売した。この日付けは夏安吾の成就日や盂蘭盆会また七夕とかさなり素麺を食べる習慣や収穫された夏野菜黄瓜、茄子でうま、うしをつくる風習、八朔の馬節句などが入り交じり『しん粉馬』二結びつく。江戸時代の初めの菓子屋の看板に馬の形が見られるのもこれに因む。またこの「あらうまし」の真逆として『やしょうま』がうまれた。

これらの『唐菓子』は幕末の朝庭の節会にもその姿を残したが多くはしだいにそのすがたを消していく事になる。

点心

空心に点ずるとして点心である 空心とはすきはらということであり 『節用集』などには「僧家、定食の前後の小食を点心」という 歴史区分でいうと平安時代後期平氏によって日宋貿易が再開されたころ 栄西や道元に代表される新仏教、禅宗が多くの僧によって日本にもたらされた。禅宗は日常の暮らし方そのものを修行と考えそれを規定したものを清規という とくに喫茶や調理に詳しい。この禅院の点心に現在私たちが目にする和菓子の基本的な要素としての『羊羹』と『饅頭』がある。それぞれの形状について考えてみよう。

『羊羹』とは字義からみると羊のあつもの 羊肉のスープであるもうひとつの『羊羹』がある羊肝=レバーである、御嫌いな方には申し訳ないが きわめて美味なものであると認識されてきたものである この肝に似せたものとして羊肝カウ=もちである チョコレートのトリュフが きのこのトリュフに似せて作られたようなものである 日本的でない特異な事例かとおもう。室町期には 『蒸し羊羹』が主体であったものが江戸期になると京都伏見での寒天という凝固剤の発見は 羊羹舟(寒天液を流す為のパット)で固まったものを 包丁で切り出すというあたらしい技術が生まれた

この「包丁」という技法は18世紀後半より様々な形状の『羊羹』を生み出す、明治になると、冠婚葬祭のための引菓子という木箱折詰めの形態が完成する その中身は『こなし』『上用』『羊羹』を基本として三種盛り、五種盛り、七種盛り、九種盛りの相をなし『羊羹』においては三種盛りでは箱内の半分の容積を占める、五種盛りでは数量は一点で容積は三分の一を占める場合が一般的である、七種盛りの場合も一点で容積は三分の一、九種盛りにおいては数も容積も全体の三分の一となる。切り方には、三蓋松や、折松葉などに似せたものと、末広形、扇に似せたものが大勢を占める。

金型で羊羹を抜くという方法もある。金型は尾形光琳による光琳形が多い。世界でも稀なる、花鳥風月をモチーフにした美しいアブストラクトリーなフオルムである。

『饅頭』の渡来起源は鎌倉中期聖一国師円爾弁円により博多にもたらされた『酒饅頭』とするもの、南北朝期に林浄因による奈良に渡来したと言う二説があるがもっと古く12世紀はじめには博多の唐人街(宋)であるタンカやトウボウにそれを商う者がいたであろう。『事物起源』にあるように蛮人の頭に似せた小麦粉の肉饅や采饅が当初の姿であった。漢音でマントウ、呉音でバンジュウ、今で言う北京語と広東語が混ざりマンジュウという音が日本で生まれた 中国において外側生地の包み口が上方にくるが日本においてはその包み口が底部にくる 『吾妻鏡』の富士の巻き狩りの恩賞に配られた饅頭が本邦饅頭の初見でありその形は上部に十字の切り込み(蒸気抜き)があった事が解る またその名称も形のとおり『十字』と『吾妻鏡』には記載される。

のちこの十字は、紅い点となり『えくぼ上用』と呼ばれ婚礼などの祝儀事にもちいられるようになるまた『笑顔』と呼ばれる事となる。紅白饅頭も婚礼祝儀事で用いられるが この事は、饅頭渡来の起源でふれた林浄因が 後小松帝に饅頭を献上した功により、官女を賜わったという故事に因むと現在 婚礼諸儀菓子を営む菓子屋の栞によくかかれている。

南蛮菓子

「南蛮」の字義についてすこし考えてみよう。中国人の中華思想における四夷のひとつである。

日本においては15世紀以降は、ルソン、シャム、ジャワ、マカオの南洋諸国を云い 特にこれらのコロニアルを経て、来朝するポルトガル人、イスパニア人を日本では南蛮人と呼んだ。ただ 日本に移入された南蛮菓子の九割方は、ポルトガル人がもたらし、ポルトガル語が日本語化したものである。その唯一の例外『カステイラ』、イスパニア国内にある国中国のCastilia王国の菓子であり、その字義は、城郭である イベリア半島の中部にあリ まさにムーア人の侵略を防いできた城郭の形状をしているところからその名称が出来たと その直方体の形に慣れ親しむ私たちは思わず納得してしまう。

しかし、日本における初期のカステラは どうも円形をしていたようである。
『カステイラ系』の菓子の特徴は、その内部が海綿状になっている事である。本朝の記録として16世紀に初めておおやけに卵が食べられた天武朝以来の獣肉食回避の仏教観念の浸透により表向きの卵食はない 南蛮文化の渡来により、卵黄、卵白の界面活性効果を菓子作りに利用しSponge Cakeの登場である。愛媛県松山の名物に『タルト』がある、道後温泉の土産物街の両側は『のの字巻き』餡入りロールケーキだらけである。竿状に成形したものを切り出してゆくと言うものの始まりであろう。

茶会における薄茶の相方とも言える菓子は、干菓子という。濃茶の主菓子がその会のテーマを抽象化した難解なものであるのに比べ干菓子は、解りやすいみたままの具象である。普通二種か、三種盛りで表現する。その最もフォーマル時に登場するのが『有平糖』である。ポルトガル語のAlfeloaが語源である、ようするに『飴』。形状は初期のころは「丸形」「板状」「棒形」と普通に「有平細工」と呼ばれる具象そのもの工芸菓子がある。 

もうひとつ、不思議な形状の南蛮菓子が今に伝わっている。『金平糖』星形とも比定される、つのだしされた小粒、様々な色砂糖が糖衣されている。これも語源はConfeitoポルトガル語である。英語のコンフェクション、独語のコンデトライ、仏語のコンフィズリーすべてその意は菓子である。宣教師フロイスがキリスト教の布教のために信長に送ったものとしても有名である茶の湯の勃興期とも重なり現代茶道の各流派の茶箱点前において振り出しと呼ばれる小瓶に入れられ茶菓子として組み込まれている。角の数は12のもの あるいは16のものがよいなどという俗説がある。

和菓子の完成

『喫茶往来』という書物がある。手紙のやり取りの形態による所謂マニュアル本、手本である。14世紀の後半の成立と推定されるが茶会に来れなかった人物に対し茶会の様子を詳しく説明したものである。この茶会は『闘茶』という茶の産地を当てる遊興性の高い宴会である。水繊で酒三献、索麺(そうめん)で茶、その後山海の珍味の主餐、そして『菓子』、庭の散策を楽しんだのちに茶を飲む。菓子の後に茶という構図が出来はじめたと考えても良い時期である。

ただこの『菓子』は果物であろう。年代のはっきりしたものでは、古今伝授や、室町期文化サロンの主宰として有名な三条西実隆の『実隆公記』長享二年(1488)五月十八日の条に「今夜女中に菓子を賜い茶を飲む」とある。このあたりから茶請けに近いものになっていく、というのも此のすぐ後の時代 天文年間になると茶会記がうまれる。この会記のなかには具体的な菓子が記載されている。羊羹、饅頭、きんとん、餡餅等その形状が想像のつく物が増えてくる。その中でも注目すべきことがある。器と菓子の関係の事である

『松屋会記』の弘治二年(1556)三月九日に「食籠に饅頭」『今井宗及茶湯日記抜書』の永禄六年(1563)十一月四日朝 松永弾正 「フチ高二キントン」 永禄九年(1566) 宗易(利休)会 「高杯盆に栗やきてまめあめ」とある それぞれ 食籠(表千家で主に用いられる)、縁高(裏千家で主に用いられる)、高杯盆(二種盛りの干菓子盆の初見)。

現在菓子屋が、茶会の菓子を受注すると、まず当日の茶席の室礼のデータを亭主よりいただくこれが『会記』というものである。

菓子を考える上では 『床の掛け軸』と『菓子器』がなんであるのかが、重要である。『床掛』にはその茶会のオモイ、要するにテーマが凝縮されている。特に亭主に之と言ったオモイのないときなどは、私の場合『和歌』をつくりその三十一文字の中のキーワードを一つ二つ撰び、それをまず平面画としてその形状を創造する。

ここで二番目の要因として『菓子器』の形状により菓子の形は大きく左右される、基本的には、上から見たものとして円形、小判型(楕円)、長方形(俵型、誰が袖もふくむ)、正方形、三角形(茶巾絞りもふくむ)などがある。

角形の器、特に格の高い縁高には円形、三次元でいえば球体しか似合わない。円形の器で蓋の有る物、これは食籠と呼ばれるが、基本的には、腰高の上用饅頭を入れると品格が感じられる、表千家において初釜という茶家での最も重要なもてなし時に、常磐上用という中餡が緑色の饅頭が考案された。

ここで、少し外皮と中餡の二重構造にふれてみたい。『包む』という作業が『和菓子』の立体的構造をならしめていて、此の事が『和菓子』の構造的中心及び大多数を占めている事は、世界の菓子の形状からみて特筆すべき点と言えるであろう。構造的にみて、その外皮の材料、大まかに分けると薯蕷、もち、外郎、小麦生地、道明寺などである。内餡は、小豆、白小豆、手亡豆を材料とする餡を着色する。この外材と内材の組み合わせによってテーマの基礎となる部分を決定する。外材と内材に関する事は、此の国の菓子が、自然菓子から始まったとする『菓祖神田間守』の伝承に源を発する蜜柑の形態的特徴、ようするに皮と実に因するものかと考えられる。

外的な構造について整理してみると、縦、横、上下の線の構成により創菓し、線には、直線と曲線がある、直線には主に真摯、厳粛、荘重、きれなどの感情表現に用い、曲線は、優美、典雅、まろやか、優しさ、和の表現に用いる。 

直線と曲線を縦横に組み合わせる二次元の世界に上下の三次元世界を構築しそのバランスによりひとつの銘をもつ『菓子』の形が完成する。

そして『菓子』の表面は様々な色彩で覆われる 色彩は、時間の概念を付与する。朝茶事の空間においての色、正午の色、夜ばなしにおける菓子の色は同一の菓子であってもその色を作り手は変化させる。世界的にみてこれは、『京菓子』の唯一無二の特徴といえる。刻々と変化するこの日本の自然を、手のひらにのる程度の大きさに凝縮し出来るだけ簡素な『かたち』として表現する和菓子の完成である。

文章:太田宗達

研究コラム 

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